ジョニー・ポール・コロマ
ジョニー・ポール・コロマ Johnny Paul Koroma | |
1999年 | |
任期 | 1997年5月25日 – 1998年2月12日 |
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出生 | 1960年5月9日 イギリス領王室植民地シエラレオネ コノ地区 |
死去 | (2003-06-01) 2003年6月1日(43歳没) リベリア ロファ郡 |
政党 | 軍事革命評議会 |
出身校 | サンドハースト王立陸軍士官学校 |
シエラレオネ内戦 |
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人物 |
チャールズ・テーラー |
フォディ・サンコー |
ヒンガ・ノーマン |
アフマド・テジャン・カバー |
ジョニー・ポール・コロマ |
バレンタイン・ストラッサー |
ソロモン・ムサ |
軍隊 |
革命統一戦線(RUF) シエラレオネ軍(SLA) ウェスト・サイド・ボーイズ |
カマジョー エグゼクティブ・アウトカムズ社 |
ECOMOG サンドライン社 |
平和への取り組み |
ロメ合意 アビジャン合意 |
UNAMSIL SCSL |
政治グループ |
シエラレオネ人民党 |
AFRC |
全人民会議 |
民族グループ |
メンデ族 テムネ族 リンバ族 クリオ |
関連項目 |
フリータウン マノ川 |
紛争ダイヤモンド |
リベリア内戦 |
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ジョニー・ポール・コロマ(Johnny Paul Koroma, 1960年5月9日 - 2003年6月1日)は、西アフリカ・シエラレオネ共和国の軍人及び軍事革命評議会(AFRC)の元議長。最終階級は少佐。
経歴
コロマは1960年5月9日シエラレオネ北東のコノ地区でリンバ族として生まれた。コロマは首都フリータウンで育ち、カトリック系の学校に通っていた。1985年に軍に入隊し、1988年にイギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校に留学し士官としての訓練を受けた。
1989年シエラレオネに帰国、小隊長、中隊長と昇進を重ねて行った。1994年軍の命令及び参謀本部に入るため、ガーナのテシにある軍の大学に行った他、ナイジェリアとイギリスで軍事訓練を受けた。
しかし、1996年大統領に就任したアフマド・テジャン・カバーは軍冷遇政策を遂行しようとしていたため、コロマ少佐を始めとする軍人は、カバーのその政策に不満を持つようになり、9月軍事クーデターを起こした。このクーデターでコロマ少佐らは逮捕されパデマ・ストリート刑務所に送られた。しかし反カバー派の軍人達(主に革命統一戦線(RUF))が刑務所を襲撃し、コロマ少佐らクーデター容疑の軍人の囚人700人を脱獄させた。1997年5月27日コロマは再び軍事クーデターを起こし、打倒カバー政権をはかった。このクーデターでコロマ少佐はカバー大統領を追放し、国家元首となった。
同盟を結んでいた革命統一戦線(RUF)のアハメド・フォディ・サンコーとは連携関係にあり、コロマがAFRCの議長になった時、副議長にはRUFのサンコーが就いていて、政権はAFRCとRUFが合同で担当していた。そのためシエラレオネはさらに泥沼化した。コロマ議長は数年後の民政移管を宣言したが、カバー大統領の方が合法的で民主的な手段で政権を勝ち取っていたので、国際社会はコロマ議長の軍事クーデター行動を厳しく批判していた。
1998年2月12日西アフリカ諸国経済共同体(ECOMOG)がフリータウンを奪還し、翌年には軍事政権関係者を拘束したため、コロマ政権は崩壊。3月10日カバー大統領が帰国し、コロマから政権を取り戻した。その後、コロマはサンコーと同様に残酷な虐殺をしたと、戦争犯罪の罪で起訴された。起訴されたコロマは同胞リベリア国民愛国戦線のチャールズ・テーラーが支配する隣国リベリアに逃亡した。しかし、2003年6月1日逃亡先のリベリアで口封じのために殺された。
ところが、リベリアで発見された遺体のDNA鑑定からコロマ本人との一致は認められず、逃亡生活を続け最終的に2017年8月10日夜に亡くなり翌日に埋葬されたとも言われている[1]。この場合、57歳没となる。
脚注
- ^ “Johnny Paul Koroma Dead And Laid To Rest”. sierra express media. (2017年8月20日). オリジナルの2022年5月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210419192617/https://sierraexpressmedia.com/?p=82074 2022年5月25日閲覧。
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