ドロット
ドロット דּוֹרוֹת | |
---|---|
ドロット | |
北緯31度30分23.03秒 東経34度38分43.44秒 / 北緯31.5063972度 東経34.6454000度 / 31.5063972; 34.6454000 | |
国 | イスラエル |
地域評議会 | シャアール・ハネゲフ |
地区 | 南部地区 |
設立年 | 1941年 |
人口 | 822人 |
座標: 北緯31度30分23.03秒 東経34度38分43.44秒 / 北緯31.5063972度 東経34.6454000度 / 31.5063972; 34.6454000 ドロット(Dorot、ヘブライ語: דּוֹרוֹת =「世代」の意)は、イスラエル南部のキブツ。スデロットの近傍の国道344号線沿いにあり、行政区画の上ではシャアール・ハネゲフ地域評議会(英語版)に属する。2018年時点の人口は、822人。
集落の場所は、ガザ地区との国境からおよそ10マイル (16km)、スデロットからおよそ4.5マイル (7.2km)、アシュケロンからおよそ18マイル (29km) 離れている[1]。
歴史
ドロットは、1941年のハヌカーの時期に、ドイツから逃れてきたユダヤ人難民(英語版)たちによって設立され、彼らは穀物や果樹、野菜類を栽培した。このキブツでは、特に土壌流出が深刻な問題であった[2]。名称は、その前年に自動車事故で亡くなった、ホズ (Hoz) 家の3人、label=ドブ (Dov)、リフカ (Rivka)、ティルツァ (Tirtza) に因んで、頭文字をつなげたものだった。やがて遅れて、イスラエル生まれのユダヤ人(サブラ(英語版))や、チェコスロバキアやラトビアからの移民がやってきた。1947年の時点では、人口は300人だった[2]。
1946年夏、ドロットは隣村のルハマとともに、イギリス陸軍に占領された。違法に所持された武器の探索をおこなったイギリス軍は、村に相当の物的損害を与えた[2]。
1948年以降、ドロットは開墾地を広げ、それは1948年アラブ・イスラエル戦争(英語版)の最中に住民が追われて無人化していたパレスチナ人(アラブ人)の村フジ(英語版)の領域に及んだ.[3]。
20世紀末のキブツ制度の変革の中で、ドロットでも資産の私有化などが導入されており、もはや本来の狭い意味におけるキブツではないが、コミュニティの運営に関する合議の慣習など、かつてのキブツの制度が多く残されている集落である[1]。
農業
このキブツにおける農業には点滴灌漑が大幅に導入されており、営農されている農地は 3,700エーカー(1,480ha)以上に及ぶ[1]。主な産物には、ニンニク、コムギ、ニンジンなどがある[1]。
著名な住民
- エリヤフ・モヤル (Eliyahu Moyal) - クネセト議員
歴史的写真
- エジプト軍の攻撃に備えて、即席の装甲車両で避難するドロットのキブツの子どもたち、1948年。
- ドロットのキブツに置かれたイファタフ第3大隊 (Yiftach 3rd Battalion) の司令部、1948年。
- ドロットの飛行場、1948年。
脚注
- ^ a b c d Barken, Jeffrey (2011年11月14日). “Where rockets miss, a kibbutz prospers”. 2019年11月18日閲覧。
- ^ a b c Jewish National Fund (1949). Jewish Villages in Israel. Jerusalem: Hamadpis Liphshitz Press. pp. 32–33
- ^ Khalidi, Walid (1992). All That Remains: The Palestinian Villages Occupied and Depopulated by Israel in 1948. Washington D.C.: Institute for Palestine Studies. p. 103. ISBN 0-88728-224-5
外部リンク
- קיבוץ דּוֹרוֹת (ヘブライ語) - キブツのサイト
- My Home Place - Kibbutz Dorot, Israel© - YouTube