ピラージー・ラーオ・ガーイクワード
ピラージー・ラーオ・ガーイクワード Pilaji Rao Gaekwad | |
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ガーイクワード家当主 | |
在位 | 1731年 - 1732年 |
別号 | サルダール マハーラージャ |
出生 | 不詳 |
死去 | 1732年5月14日 ダコール |
子女 | ダマージー・ラーオ・ガーイクワード |
家名 | ガーイクワード家 |
宗教 | ヒンドゥー教 |
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ピラージー・ラーオ・ガーイクワード(Pilaji Rao Gaekwad, 生年不詳 - 1732年5月14日)は、西インドのグジャラート地方、ガーイクワード家の当主(在位:1731年 - 1732年)。
生涯
ガーイクワード家の当主ピラージー・ラーオ・ガーイクワードは、もともとマラーター王国の武将の一人であった[1]。
1720年代、マラーター王国宰相バージー・ラーオの命により、ピラージー・ラーオはチャウタとサルデーシュムキーを徴収するためグジャラート地方への遠征を行った[1]。1726年にはソーンガドに拠点を築いた[1]。
1730年、マラーター王国の軍総司令官トリンバク・ラーオ・ダーバーデーがグジャラートを自己の版図と見なし、ニザーム王国の援助のもと反乱を起こした[2]。そのため、バージー・ラーオは反乱鎮圧に向かい、ピラージー・ラーオもこれに協力した。
1731年4月、ピラージー・ラーオは宰相バージー・ラーオとともにトリンバク・ラーオをダバイーで打ち破った(ダバイーの戦い)[2]。これにより、グジャラートの支配を認められたマラーター諸侯(サルダール)としてのガーイクワード家が誕生した[1]。
1732年5月14日、ピラージー・ラーオはムガル帝国の武将アバイ・シングとの戦いで死亡してしまった[1]。
出典・脚注
- ^ a b c d e Baroda 3
- ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215
関連項目
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当主 | ピラージー・ラーオ・ガーイクワード1731-1732 / ダマージー・ラーオ・ガーイクワード1732-1768 / サヤージー・ラーオ・ガーイクワード1768-1778 / ファテー・シング・ラーオ・ガーイクワード1778-1789 / マナージー・ラーオ・ガーイクワード1789-1793 / ゴーヴィンド・ラーオ・ガーイクワード1793-1800 / アーナンド・ラーオ・ガーイクワード1800-1801 |
ヴァドーダラー藩王 | アーナンド・ラーオ・ガーイクワード1801-1819 / サヤージー・ラーオ・ガーイクワード2世1819-1847 / ガナパト・ラーオ・ガーイクワード1847-1856 / カンデー・ラーオ・ガーイクワード1856-1870 / マルハール・ラーオ・ガーイクワード1870-1875 / サヤージー・ラーオ・ガーイクワード3世1875-1939 / プラタープ・シング・ラーオ・ガーイクワード1939-1947 |
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