フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)

フランツ1世
Franz I
神聖ローマ皇帝
フランツ1世
在位 1745年9月13日 - 1765年8月18日
戴冠式 1745年10月4日
別号 ロレーヌ公
バル公
テシェン公
トスカーナ大公

出生 1708年12月8日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ロレーヌ公国 ナンシー
死去 (1765-08-18) 1765年8月18日(56歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
チロル伯領 インスブルック
配偶者 マリア・テレジア
子女 下記
家名 ロレーヌ家
王朝 ハプスブルク=ロートリンゲン朝
父親 レオポルト
母親 エリザベート・シャルロット・ドルレアン
サイン
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フランツ1世ドイツ語: Franz I., 1708年12月8日 - 1765年8月18日)はオーストリア女大公(「女帝」)マリア・テレジアの夫で、神聖ローマ皇帝(在位:1745年 - 1765年)。全名は、フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(ドイツ語:Franz Stephan von Lothringen)。ロレーヌ公としてはフランツ3世(在位:1729年 - 1737年)、トスカーナ大公としてはフランチェスコ2世(Francesco II 在位:1737年 - 1765年)。

マリア・テレジアとの婚姻により帝位を継承するが、家領のロレーヌ公国フランスへ譲らなければならなかった。2人の間にはヨーゼフ2世、レオポルト2世、マリー・アントワネットなど16人(男子5人、女子11人)の子が生まれた。ルイ13世は曽祖父、アンリ4世は高祖父、フランツ・ヨーゼフ1世は玄孫、オットー・フォン・ハプスブルクは仍孫、カール・ハプスブルク=ロートリンゲンは雲孫である。

生涯

生い立ち

ロレーヌ公レオポルト・ヨーゼフの次男として生まれた。母はルイ14世の弟オルレアン公フィリップの娘エリーザベト・シャルロッテである。兄のレオポルト・クレメンスが夭折したため後継者となった。父方の曾祖父に神聖ローマ皇帝フェルディナント3世がいて、マリア・テレジアとは又従兄妹の関係であった。

陽気で親しみやすい性格で、マリア・テレジアの父 カール6世からも大変に気に入られていたという。1723年8月初めにマリア・テレジアとの婚約が決まり、オーストリアへ赴いた。

フランツは自然科学には大変な興味を持ち、後には独学で相当なレベルにまで達したが、興味のない読解、作文、ラテン語といった科目は、あまり積極的に勉強しようとはしなかったという。

1729年、父の死によりロレーヌ公位を継いだ。

1731年11月18日、王立協会フェローに選出された[1]

マリア・テレジアとの結婚とロレーヌの放棄

1736年2月12日にフランツとマリア・テレジアは結婚した。当時の王室としては異例の恋愛結婚で、フランツは名門ハプスブルク家と結びつくことになった(2人の子供の代からはハプスブルク=ロートリンゲン家となる)。しかしそのために周辺諸国からは反発され、故国のロレーヌ公国をフランスへ譲った。ロレーヌはフランス国王 ルイ15世の王妃の父である前ポーランド国王 スタニスワフ・レシチニスキが1代限りの君主として余生を過ごした後、フランス王国に併合される。一方、フランツはメディチ家が断絶して空位となったトスカーナ大公国を継承した。フランツは父方と母方の双方から、メディチ家の大公フランチェスコ1世の血を引いていた[2]

フランツはロレーヌの譲渡に関する合意書に署名する際、怒りと絶望のあまり3度もペンを投げ捨て、震える手でようやく署名したという。また、母エリザベート・シャルロットからはその譲渡を激しく非難された。

その後もフランツは生涯に何度も屈辱を味わわされることとなった。宮廷のしきたりに従って、夜に劇場を訪れる時には2列目という格下の席に甘んじなければならなかった。また、オーストリアの宮廷人たちはフランツをマリア・テレジアの添え物に過ぎないと見ており、「殿下」の敬称を付けないなど、ちょっとした嫌がらせは日常茶飯事だったという。

このような態度は宮廷にとどまらず、ウィーン市民からもフランツは厄介者の外国人呼ばわりされていた。1738年10月6日、第1子に続いて第2子も女子のマリア・アンナが生まれたと知ると、宮廷人も民衆もこぞってフランツのせいにした。

オーストリア継承戦争

1740年にカール6世が没すると、マリア・テレジアがオーストリア大公に即位し、彼女の決定によりフランツは共同統治者になった。しかし列国はカール6世の生前に交わした国事勅書の取り決めを無視してハプスブルク家領を侵略し、オーストリア継承戦争が勃発した。プロイセン国王 フリードリヒ2世はシュレージエンを占領し、マリア・テレジアの従姉マリア・アマーリエを妃とするバイエルン選帝侯ボヘミアを占領した上にフランツを差し置いて神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠した。

オーストリアの軍隊は弱体であり、フランツはプロイセンとの交渉では条件次第で和平を結ぶことも考えていた。しかし、オーストリア宮廷で主導権を握るのはマリア・テレジアであり、シュレージエンを占領された事に激怒していた彼女はプロイセンに対して一歩も譲歩する気はなく、断固戦う意志を固めていた。

1741年1月1日の最後の会談の際、フランツとプロイセン側の使者ゴッター伯グスタフ・アドルフは極秘に交渉を続けたが、マリア・テレジアはドアの裏やカーテンの陰で耳をそばだて、少しでもフランツが譲歩しそうな気配を見せると、子犬でも呼びつけるように夫へ合図を送った。この交渉は結局、マリア・テレジアによって強引に打ち切られ、戦争は再開されたが、同年4月10日にオーストリア軍はプロイセン軍に敗北した。これを機に、フランツは国政には関与しないようになり、一切の実権をマリア・テレジアが握ることとなった。

1741年6月25日、マリア・テレジアはプレスブルクハンガリー女王として戴冠式を挙行した。フランツはここでも屈辱を味わわされた。ハンガリー貴族たちは、共同国王でも「王妃」でもないフランツに、私人としての席しか用意できないと告げたのである。フランツは不快な思いを避けるため、戴冠式が行われる聖マルチン教会には入らず、教会の外壁にスタンドのようなものをこしらえると、3歳になる娘のマリア・アンナと上までよじ登り、教会の窓から様子を覗いたという。戴冠式の後の祝宴でも、フランツはいつものように末席につかされた。その後、フランツがハンガリー貴族との会議に出席したことは一度もなく、存在さえほとんど忘れ去られていたという。

1744年9月、フランスとの戦争に参加して軍功を立てようと試みたが、ただちにマリア・テレジアに呼び戻されている。

皇帝即位

マリア・テレジアは夫に権力を与えようとはしなかったが、代わりに皇帝の座を約束した。カール7世は短い在位の間にオーストリアの反撃を受けて失意のうちに没し、フランツは1745年神聖ローマ皇帝に即位した。皇帝に即位した後も実権はマリア・テレジアが持っていた(すでに神聖ローマ帝国は実質的にドイツ国家連合と化していたため、国家として機能している部分を統べるオーストリア大公位を兼ねない皇帝位にはさほどの権限はなかった)が、財政や科学の振興などの面で功績を残している。

フランツには財政家もしくは経営者としての手腕があり、七年戦争で苦しくなったオーストリアが国債の発行に踏み切る際には、その保証人になれるほどの莫大な財産を残している。また、シェーンブルン宮殿の一角に植物園動物園をつくり、昆虫や鉱石を分類したコレクションを遺した。これらのコレクションは現在ウィーン自然史博物館に所蔵されている。

フランツは常に子供たちの幸せを考える良き父親でもあった。中でも、身体が不自由で容姿が醜く嫁にやれないため、マリア・テレジアや弟妹たちから嫌われていた次女のマリア・アンナのことを特に気にかけていたという。しかし、フランツとマリア・テレジアの死後、マリア・アンナを母親以上に憎悪していた弟ヨーゼフ2世の暗躍により、マリア・アンナは宮廷から完全に追放され、クラーゲンフルト修道院に入れられてしまうことになった。

1765年8月18日、フランツは三男レオポルトの結婚祝いのために赴いたインスブルックで、ゴルドーニの喜劇とバレエを鑑賞して帰還した後の夕方、突如没した。フランツの死後、大勢の人々がその寛大で温かな人柄を惜しみ、褒め称えて敬意を表した。

マリア・テレジアは夫の死を深く悲しみ、シェーンブルン宮殿の一角に夫を偲ぶ真っ黒な漆塗りの部屋を設けたほか、夫が没した地インスブルックに設置された凱旋門にはフランツの死を悼むレリーフを据え付けさせた。また彼女は夫の死後、自身が没するまで喪服しか着用しなくなったという。

フランツの死後、皇帝位は長男ヨーゼフ2世が継いだ。フランツ自身の領地のうち、トスカーナ大公国は三男レオポルト(のちの皇帝レオポルト2世)が継いだ。フランツはまた、失ったロレーヌの他にシュレージエンの一角にあったテシェン公国を父レオポルトから受け継いでいたが、これはマリア・テレジアがひいきにしていた四女マリア・クリスティーナとその婿アルベルト・カジミールに受け継がれることになった。

子女

妻マリア・テレジアとの間に5男11女の計16人の子女をもうけた。

  • マリア・エリーザベト(1737年 - 1740年)
  • マリア・アンナ(1738年 - 1789年)
  • マリア・カロリーナ(1740年 - 1741年)
  • ヨーゼフ・ベネディクト・(1741年 - 1790年) − 神聖ローマ皇帝・ボヘミア国王・ハンガリー国王
  • マリア・クリスティーナ(1742年 - 1798年) - 1765年 ザクセン=テシェン公 アルベルト・カジミールと結婚
  • マリア・エリーザベト(1743年 - 1808年) − インスブルック女子修道院長
  • カール・ヨーゼフ(1745年 - 1761年)
  • マリア・アマーリア(1746年 - 1804年) - 1769年 パルマ公 フェルディナンドと結婚
  • ペーター・レオポルト(1747年 - 1792年) - トスカーナ大公 のち神聖ローマ皇帝・ボヘミア国王・ハンガリー国王
  • マリア・カロリーナ(1748年)
  • マリア・ヨハンナ(1750年 - 1762年)
  • マリア・ヨーゼファ(1751年 - 1767年)
  • マリア・カロリーナ(1752年 - 1814年) − 1776年、ナポリ国王 フェルディナンド4世と結婚
  • フェルディナント(1754年 - 1806年) - オーストリア=エステ大公
  • マリア・アントーニア(1755年 - 1793年) - 1770年、フランス国王 ルイ16世と結婚
  • マクシミリアン・フランツ(1756年 - 1801年) - ケルン大司教

フランツ1世が登場する作品

漫画

テレビアニメ

  • ラ・セーヌの星』 - フランス革命を背景にフランツ1世とパリ・オペラ座の歌姫との間に生を受けた美少女シモーヌが仮面の剣士「ラ・セーヌの星」となって活躍する。

小説

脚注

[脚注の使い方]

出典

  1. ^ "Francis I (1708 - 1765); Roman Emperor and Grand Duke of Tuscany". Record (英語). The Royal Society. 2020年6月2日閲覧
  2. ^ フランチェスコ1世の六女はフランス王ルイ13世の母后マリー・ド・メディシスである。また、長女エレオノーラ・デ・メディチの長女マルゲリータ・ゴンザーガ(ロレーヌ公アンリ2世の妃)はロレーヌ公ニコラ2世の妃クロードの母であり、エレオノーラの長男フランチェスコ4世・ゴンザーガの孫に皇帝フェルディナント3世の皇后エレオノーラ・マグダレーナ・ゴンザーガがいる。

関連項目

外部リンク

  • ウィキメディア・コモンズには、Francis I, Holy Roman Emperor (カテゴリ)に関するメディアがあります。


爵位・家督
先代
カール7世
神聖ローマ皇帝
1745年 - 1765年
次代
ヨーゼフ2世
爵位・家督
先代
レオポルト
ロレーヌ公
バル公

1729年 - 1737年
次代
スタニスラウス1世
爵位・家督
先代
レオポルト
テシェン公国
1737年 - 1765年
次代
ヨーゼフ2世
爵位・家督
先代
ジャン・ガストーネ
トスカーナ大公
1737年 - 1765年
次代
レオポルド1世
カロリング朝
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  • ルートヴィヒ1世813-840
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  • カール2世875-877
  • カール3世881-887
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  • アルヌルフ896-899
  • ルートヴィヒ3世2901-915
  • ベレンガル3915-924
ザクセン朝
  • オットー1世962-973
  • オットー2世967-983
  • オットー3世996-1002
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ザーリアー朝
  • コンラート2世1027-1039
  • ハインリヒ3世1046-1056
  • ハインリヒ4世1084-1105
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ホーエンシュタウフェン朝
  • フリードリヒ1世1155-1190
  • ハインリヒ6世1191-1197
  • オットー4世51209-1215
  • フリードリヒ2世1220-1250
ルクセンブルク家
  • ハインリヒ7世1312-1313
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  • カール5世1530-1556
  • フェルディナント1世1558-1564
  • マクシミリアン2世1564-1576
  • ルドルフ2世1576-1612
  • マティアス1612-1619
  • フェルディナント2世1619-1637
  • フェルディナント3世1637-1657
  • レオポルト1世1658-1705
  • ヨーゼフ1世1705-1711
  • カール6世1711-1740
  • カール7世61742-1745
ハプスブルク=ロートリンゲン家
  • フランツ1世71745-1765
  • ヨーゼフ2世1765-1790
  • レオポルト2世1790-1792
  • フランツ2世1792-1806
歴代ドイツ君主・盟主
カロリング朝
  • (ピピン751-768
  • カール1世皇帝(768)-814
  • ルートヴィヒ1世皇帝814-840
  • ロタール1世皇帝840-843
  • ルートヴィヒ2世843-876
  • カールマン2世876-880
  • ルートヴィヒ3世876-882
  • カール3世皇帝876-887
  • アルヌルフ皇帝887-899
  • ルートヴィヒ4世899-911
  • 断絶
  • コンラート1世1911-918
共同王
  • (カールマン1世768-771
ザクセン朝
  • ハインリヒ1世919-936
  • オットー1世皇帝936-973
  • オットー2世皇帝973-983
  • オットー3世皇帝983-1002
  • ハインリヒ2世皇帝1002-1024
共同王
  • オットー2世皇帝961-973
対立王
  • バイエルン公アルヌルフ919-921
  • バイエルン公ハインリヒ2世984-985
ザーリアー朝
  • コンラート2世皇帝1024-1039
  • ハインリヒ3世皇帝1039-1056
  • ハインリヒ4世皇帝1056-1105
  • ハインリヒ5世皇帝1105-1125
  • 断絶
  • ロタール3世2,皇帝1125-1137
共同王
  • ハインリヒ3世1028-1039
  • ハインリヒ4世1053-1156
  • イタリア王コンラート1087-1098
  • ハインリヒ5世1198-1105
対立王
ホーエンシュタウフェン朝
  • コンラート3世1138-1152
  • フリードリヒ1世皇帝1152-1190
  • ハインリヒ6世皇帝1190-1197
  • フリードリヒ2世1197-1198
  • フィリップ1198-1208
  • 中断
  • オットー4世3,皇帝1208-1215
  • 再開
  • フリードリヒ2世皇帝(復位)1215-1220
  • ハインリヒ(7世)1220-1235
  • コンラート4世1237-1254
共同王
  • ハインリヒ6世1169-1190
  • フリードリヒ2世1194-1197
対立王
  • ヴェルフ家オットー1198-1208
  • シチリア王フリードリヒ1212-1215
  • ハインリヒ・ラスペ1246-1247
  • ホラント伯ヴィルヘルム1248-1254
大空位時代
  • ホラント伯ヴィルヘルム1254-1256
  • コルンヴァル伯リヒャルト1257-1272
対立王
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非世襲期
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  • アドルフ51292-1298
  • アルブレヒト1世41298-1308
  • ハインリヒ7世6,皇帝1308-1313
  • ルートヴィヒ5世7,皇帝1314-1347
  • カール4世6,皇帝1347-1378
  • ヴェンツェル61378-1400
  • ループレヒト71400-1410
  • ジギスムント6,皇帝1410-1437
  • アルブレヒト2世41438-1439
共同王
  • フリードリヒ3世41325-1230
  • ヴェンツェル61376-1478
対立王
ハプスブルク家
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  • ルドルフ2世皇帝1576-1612
  • マティアス皇帝1612-1619
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  • フェルディナント3世皇帝1637-1657
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  • ヨーゼフ1世皇帝1705-1711
  • カール6世皇帝1711-1740 | 断絶 | カール7世7,皇帝1742-1745
共同王
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  • フェルディナント1世1531-1556
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  • ヨーゼフ1世1690-1705
ハプスブルク=ロートリンゲン家
  • フランツ1世皇帝1745-1765
  • ヨーゼフ2世皇帝1765-1790
  • レオポルト2世皇帝1790-1792
  • フランツ2世皇帝(オーストリア皇帝フランツ1世)1792-1806
ライン同盟
連邦主席
  • オーストリア皇帝フランツ1世1815-1835
  • オーストリア皇帝フェルディナント1世1835-1848
  • ヨハン大公(帝国執政)1848-1849
  • オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世1850-1866
  • プロイセン王ヴィルヘルム1世(北ドイツ連邦)1867-1871
ドイツ皇帝
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  • プロイセン王ヴィルヘルム2世1888-1918
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