ヴィクラマーディティヤ・シング

ヴィクラマーディティヤ・シング
Vikramaditya Singh
メーワール王
在位 1531年 - 1537年
別号 マハーラーナー

死去 チットールガル
1537年
埋葬 チットールガル
王朝 シソーディヤー朝
父親 サングラーム・シング
宗教 ヒンドゥー教
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ヴィクラマーディティヤ・シング(Vikramaditya Singh, 1517年 - 1537年)は、北インドラージャスターン地方メーワール王国の君主(在位:1531年 - 1537年)。

生涯

1517年メーワール王国の君主サングラーム・シングの息子として、チットールガルで誕生した[1][2]

1531年、兄王ラタン・シング2世が死亡したことにより、王位を継承した[1][2]

ヴィクラマーディティヤ・シングの治世、メーワール王国は苦難の道にあった。グジャラート・スルターン朝がバハードゥル・シャーのもとで勢力を拡大し、1531年マールワー・スルターン朝を滅ぼしたのち、メーワール王国にも侵攻するようになった[3]

1534年[4]、バハードゥル・シャーの軍勢は王都チットールガルを包囲し、守備軍は苦境に立たされた[3]。このとき、サングラーム・シングの寡婦ラーニー・カルナーヴァティーはフマーユーンにラーキーを送って援助を求め、フマーユーンがそれに応じたという伝承があるが、真偽は不明である。ただ、フマーユーンはアーグラからグワーリヤルに移動しており、バハードゥル・シャーはその介入を恐れてヴィクラマーディティヤ・シングと協定を結び、現金と現物からなる多額の賠償を徴収し、チットールガルから撤退した。

だが、1535年にバハードゥル・シャーは再びチットールガルを包囲し[5]、今度は陥落させることに成功した[6]。だが、ムガル帝国の軍勢が接近しつつあることを知ると、バハードゥル・シャーはチットールガル城を捨てて、マールワーへとのがれた[6]

1537年、ヴィクラマーディティヤ・シングはチットールガルで暗殺された。その後、弟のウダイ・シング2世が王位を継承した[1][2]

脚注

  1. ^ a b c Udaipur (Princely State)
  2. ^ a b c UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  3. ^ a b チャンドラ『中世インドの歴史』、p.220
  4. ^ India's Road to Nationhood A Political History of the Subcontinent - Google ブックス, p.259
  5. ^ Royal Umbrellas of Stone Memory, Politics, and Public Identity in Rajput ... - Melia Belli Bose - Google ブックス, p.259
  6. ^ a b チャンドラ『中世インドの歴史』、p.222

参考文献

  • サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。 

関連項目

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