中川氏

曖昧さ回避 この項目では、岡藩主家・華族伯爵だった中川氏について説明しています。
  • 華族男爵だった中川家については「中川家 (男爵家)」をご覧ください。
中川氏
家紋
中川柏
本姓 清和源氏
種別 武家
華族伯爵
出身地 摂津国豊島郡中川村
主な根拠地 豊後国
東京市芝区南佐久間町
京都市右京区谷口園町
著名な人物 中川清秀
凡例 / Category:日本の氏族

中川氏(なかがわし)は、武家華族だった日本氏族1594年豊臣秀吉豊後国岡7万石を与えられ、江戸時代にも外様大名岡藩主として続き、明治維新後には華族の伯爵家に列した[1]

概要

清和源氏源頼光の末裔と称する[2]摂津国出身であり[1]中川清秀織田信長に仕えて4万400石(12万石とも)を知行する大名となり、信長の横死後は豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳の戦いにおいて近江国大岩山で戦死した。その子秀政は1585年(天正13年)に秀吉より1万石加増の上播磨国三木を与えられた。秀政が朝鮮で客死した後、その息子秀成1594年(文禄3年)に豊後国岡7万400石に移封された[1][2]

関ヶ原の戦いでは東軍に付いて領知を安堵され、江戸時代全期を通じて中川氏による岡領有が続いた(岡藩主)[1]

明治維新後に家督した最期の藩主中川久成1869年(明治2年)6月の版籍奉還で岡藩知事に転じ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで務めた[3]

廃藩置県の際に定められた家禄は5240石[4][注釈 1]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、14万3670円65銭(華族受給者中46位)[6]。明治前期に久成の住居は東京市芝区南佐久間町にあった[7]

明治17年(1884年)の華族令の施行に伴い、旧中藩知事[注釈 2]として伯爵家に列した[9]浅野氏からの養子の中川久任伯爵は国光生命保険相互会社社長や貴族院議員を務めている[10]

中川伯爵家の邸宅は京都市右京区谷口園町にあった。また神戸市須磨区に別邸があった[10]

脚注

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注釈

  1. ^ 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事個人の家禄と定められた[5]
  2. ^ 旧岡藩は現米5万2400石(表高7万440石)で現米5万石以上15万石未満の中藩に該当[8]

出典

  1. ^ a b c d 世界大百科事典 第2版『中川氏』 - コトバンク
  2. ^ a b 新田完三 1984, p. 161.
  3. ^ 新田完三 1984, p. 163.
  4. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 20.
  5. ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
  6. ^ 石川健次郎 1972, p. 39.
  7. ^ 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年)。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/70 国立国会図書館デジタルコレクション 
  8. ^ 浅見雅男 1994, p. 123.
  9. ^ 小田部雄次 2006, p. 325.
  10. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 139.

参考文献

  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。 
  • 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859。 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。 
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。 


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