劉廙

劉 廙(りゅう よく、180年 - 221年)は、後漢末期から三国時代の政治家。字は恭嗣。南陽郡安衆県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。長沙定王劉発の庶子の安衆康侯劉丹の子孫[1]。父は劉匊[2]、兄に劉望之。弟に劉偉。甥(弟の子)に劉阜。従孫に劉喬。『三国志』魏志に伝がある[3]

生涯

10歳のとき、学堂で遊んでいたところを司馬徽に可愛がられた。兄の劉望之は声望が高く、遠縁の荊州牧の劉表に招かれ従事を務めていたが、正論を吐いたため迫害を受けた。身の危険を感じる劉望之に対し、劉廙は今すぐ逃亡することを勧めた。劉望之はこの言葉に従わなかったため殺害され、劉廙は揚州に逃亡し[4]、後に曹操に身を寄せた。

曹操は劉廙を丞相府の属官とし、後の建安十六年に五官将曹丕)の文学に転任させた。曹丕は劉廙を信任し、草書で手紙をしたためて良いとまで言った。劉廙は恐縮しつつもこれを受け入れた。

曹操が漢中に遠征しようとすると、劉廙は上奏し、の文王のような徳を積むべきだと述べた。曹操は劉廙の意見に同意できない旨の返答をした。212年、魏国が建てられると黄門侍郎となった。

その後、劉廙の弟が魏諷の反乱に加担したため、劉廙も連座するところであった。しかし、(陳羣の助言もあって)曹操の許しを得て、丞相倉曹属への配置替えに留まった。この計らいに劉廙は上奏して曹操に礼を述べている。また陳羣にも深く感謝したが、「国家のための事であり、殿のご判断である」と言われた。

曹丕が魏王となると侍中関内侯に封じられ、皇帝即位の勧進に群臣の一人として名を連ねた。221年黄初2年)に死去した。その後、墓は盗掘されたが、生前に司馬懿と「師友の恩」があったため、武帝・司馬炎から劉阜に修繕費用などが給付された。[5]

著作

『三国志』によれば、著述が数十篇あり、丁儀と刑罰・儀礼について議論した書物、司馬徽と運命歴数について議論した書[6]。、先刑後礼の論などがあった[7]

群書治要』に『劉廙政論』が抜粋されている。

脚注

  1. ^ 晋書』巻六十一列伝第三十一劉喬伝
  2. ^ 『劉廙別伝』「考匊過蒙分遇榮授之顯」集解注に曰く「當是廙父名匊。下文考匊之愛已衰句同」 
  3. ^ ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:三國志/卷21#劉廙
  4. ^ 『劉廙別伝』の劉表に送った手紙によれば一日で廬江の尋陽まで逃れた。
  5. ^ 『太平御覧』葬送四 晋武帝《賜劉廙葬錢詔》
  6. ^ 「孫皓傳」の引く『江表伝』刁玄が蜀漢に行った際に得たという
  7. ^ 「陸遜伝」
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陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
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(魏書)
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