季子女王

季子女王
閑院宮家
続柄 閑院宮載仁親王第3女子

全名 季子(すえこ)
身位 女王
敬称 殿下
出生 1898年11月2日
日本の旗 日本東京府東京市
死去 (1914-07-17) 1914年7月17日(15歳没)
日本の旗 日本東京府東京市麹町区永田町
閑院宮邸
埋葬 1914年7月22日
豊島岡墓地
父親 閑院宮載仁親王
母親 載仁親王妃智恵子
栄典 勲二等宝冠章
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季子女王(すえこじょおう、1898年明治31年〉11月2日 - 1914年大正3年〉7月17日)は、日本皇族閑院宮載仁親王の第3女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子身位は女王で、皇室典範における敬称殿下腎臓病によって、15歳で夭折した。

経歴

  • 1898年(明治31年)11月2日 - 閑院宮載仁親王同妃智恵子の第3女子(第4子)として誕生。
  • 1905年(明治38年) - 跡見女学校入学[1]
  • 1913年(大正2年) - 交腎臓炎を患い静養する[2]
  • 1914年(大正3年)7月1日 - 発熱し食欲もなく頭痛と吐気を催す[2]
    • 7月8日 - この頃から脳症状に悩まされる[2]
    • 7月12日 - 夜に睡眠状態に陥いり時々上肢に痙攣をおこす[2]
    • 7月13日 - 午前に一時意識を取り戻し目覚める[2]
    • 7月14日 - 夜に再び昏睡状態に陥り脈拍不振で呼吸も浅くなる[2]
    • 7月15日 - 午後9時頃に上半身に痙攣をおこす[2]
    • 7月16日 - 午後11時10分に危篤に陥る[2]
    • 7月17日 - 午前0時10分に心臓麻痺により薨去[2]。満15歳没。
    • 7月20日 - 午前10時30分に大正天皇勅使として侍従の大炊御門家政が閑院宮邸へ遣わされ幣帛神饌等を賜る[3]
    • 7月21日 - 午前7時30分に大正天皇の代拝として侍従の落合為誠を、貞明皇后の代拝として皇后宮事務取扱の原恒太郎を閑院宮邸へ遣わす[3]
    • 7月22日 - 午前6時30分に閑院宮邸を出棺し東京都文京区豊島岡墓地で葬儀が行われる[4]
      • 午前9時に大正天皇より侍従の日根野要吉郎を、貞明皇后より皇后宮事務取扱の原恒太郎を遣わし玉串を供せる[3]
      • 午後2時20分に葬儀が済まされた[3]

親族

栄典

脚注

  1. ^ 女王殿下を偲び奉りて『をりをり草』跡見花蹊 著 (実業之日本社, 1915)
  2. ^ a b c d e f g h i 『官報』第589号、「宮廷録事」1914年07月17日。
  3. ^ a b c d 『官報』第594号、「宮廷録事」1914年07月23日。
  4. ^ 『官報』第592号、「宮廷録事」1914年07月21日。
  5. ^ 『官報』第589号、「叙任」1914年07月17日。
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