宮澤清六

宮澤みやざわ 清六せいろく
宮沢 清六
生誕 1904年4月1日
死没 (2001-06-12) 2001年6月12日(97歳没)
職業 実業家
配偶者 宮沢アイ
子供 宮沢潤子
父・宮沢政次郎
母・宮沢イチ
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宮澤 清六(みやざわ せいろく、 新字体: 宮沢 淸六1904年明治37年)4月1日 - 2001年平成13年)6月12日)は、宮沢賢治宮沢トシの実弟。全集の校訂者として賢治研究に貢献した。宮沢和樹は孫。

経歴

宮澤政次郎の次男として岩手県稗貫郡花巻川口町(現・花巻市)に生まれ育つ(賢治の8歳年下)。

1922年、旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、家業を手伝った[1]。同年11月27日、6歳上の姉トシが死去[2]。「家業への嫌悪」とトシ死去などの「暗欝な家庭からの脱出、息抜き」として家族の了解を得た上で、同年12月から東京市本郷区龍岡町(現・東京都文京区湯島)に下宿して、図書館や研数学館[注釈 1]数学(主として幾何学)と科学(主として電気)を学ぶ[1]。清六の記すところでは、上京後の1923年1月初旬に賢治が下宿を訪れて、トランクに入った童話の原稿を『コドモノクニ』を刊行していた東京社(現・ハースト婦人画報社)に持ち込むよう依頼し、清六はそれを実行したものの後日「雑誌には向きませんから」との理由で断られ、賢治はその後トランクを引き取って帰郷したという[3]。同年3月に「力試し」で東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科を受験して学科試験に合格するも、進学について父とも諒解を取っていなかったため、やがて帰宅して再度家業の手伝いをした[4]

1924年5月の徴兵検査に甲種合格し、同年12月1日に、一年志願兵として弘前歩兵第31連隊に入隊した[5]。入隊1年後に見習士官に任官する[6]1925年9月中旬、実家への音信がないことを案じた賢治が青森県鰺ヶ沢近くにあった山田野演習場の廠舎を訪ね、演習後に清六と面会し、その際賢治は「たくさんの企画」、清六は「将来への考え」について話し合ったという[7]

1926年3月31日付で軍を除隊する[8]。同年5月、故郷花巻で宮澤商会を開業した[8]金物建材電導材自動車部品を扱い、1942年まで営業した[8]。これにより賢治の幼少時より課題となっていた「古着商からの家業の転換」がようやく実現した[注釈 2]。賢治が同じ年の3月限りで農学校を退職して独居自炊の生活を始めることができたのは、清六によるこの転業も一役買っている。賢治が病臥してからはその看病にも当たった。1932年4月に結婚[10]。軍除隊後は花巻在郷軍人会の理事、後に副分会長となる[8]

1933年9月21日、8歳上の兄・賢治が死去[11]。その前夜、賢治から「俺が死んだら原稿はみんなおまえにやるから、本にして出したいといってくるところがあれば出してくれてもいい」と後事を託された[11]。その遺言に従い、草野心平高村光太郎らの助力を得て翌年には最初の宮澤賢治全集(文圃堂)の刊行にこぎ着ける。以後、永年にわたって賢治の遺稿の保存整理に尽力し、あらゆる版の全集の編纂校訂に携わった。賢治の生前より清六は賢治の文学活動のよき理解者であり、賢治の遺稿を所蔵していた当時も隠匿せずに希望する研究者には開示したことが天沢退二郎らによって記されている。また、校訂についても既存の立場を絶対化せず、1964年には森荘已池らとの協議の末に『銀河鉄道の夜』の本文変更を行ったり、1971年には当時まだ賢治の専門研究者とはみなされていなかった天沢や入沢康夫に次の全集の編集を委ねることを決断して原稿の逐次形態を全面的に開示する画期的な『校本 宮澤賢治全集』の刊行に道を開くなど柔軟な姿勢を取り、多くの研究者から尊敬を集めた[12][注釈 3]

戦時中、賢治との縁から東京の空襲で焼け出された高村を1945年5月に招き入れるが、宮澤家自体も8月10日花巻空襲に遭い焼失する[13][14]。このとき、賢治の遺稿の多くを被害から守り抜いた[15]。戦後に高村は郊外の太田村山口(現・花巻市)の小屋(高村山荘)に転居した[13][14]

戦後は、岩手県民生委員児童委員を歴任した。1957年12月1日に父政次郎が死去[16]1963年6月30日に母イチが死去[16]。戦後も守り続けた賢治の遺稿は1981年花巻市に寄贈し、現在は宮沢賢治記念館に収蔵されている。ただし、宮沢和樹によると書籍に載らないようなメモや下書きなどは手元に残していたという[17]

1987年筑摩書房から著書『兄のトランク』を上梓した。

1993年3月5日ヘクトから発売されたスーパーファミコン用ソフト、『イーハトーヴォ物語』(イーハトーヴォものがたり)のスペシャル・サンクス一覧に宮澤清六の名前が記載されている。

2001年6月12日老衰のため死去[18]。享年98(満97歳没)。賢治の4人の弟妹の中では最も長命でかつ最後の存命者でもあった。

娘(次女[注釈 4])は2024年4月に死去した[20]

人物

賢治の影響もあり、若い頃は科学の勉強をおこなった。1971年に書いた文章に映画『猿の惑星』の情景を風景の比喩として用いたり[21]、『校本 宮澤賢治全集』の編集に参加した入沢康夫によってアニメ『未来少年コナン』の熱心な視聴者であったと記される[22]などの嗜好が伝わる。宮沢和樹によると、和樹が中学生の頃に星新一ショートショートに熱中していると、清六は自分にも読ませるよう求め、その後「ショートショートは星新一が始めたことではないぞ」とフレドリック・ブラウンの訳書を「こちらも読んでみなさい」と和樹に渡したという[23]。また、写真撮影も趣味で、若い時期には自宅に暗室を持って現像液も調合し、賢治の原稿写真と自分の写真を合成することもしていた[24]。宮沢和樹は北上川などで風景の中から対象を見つけて接写する撮影に連れられたと述べ、撮影した写真は花巻ではできない大きな引き伸ばしのために東京にフィルムを送って現像と引き伸ばしを依頼していたと記している[24]

脚注

注釈

  1. ^ 当時の研数学館は受験予備校ではなく数学の私塾だった。
  2. ^ 賢治が質・古着商を嫌悪したことはよく知られているが、父・政次郎もより近代的な事業への転業の必要性は認識していた。賢治は盛岡高等農林学校の研究生時代に人造宝石製造業のプランを出したが、政次郎は事業性を疑問視し、実現しなかった[9]
  3. ^ 山下聖美は、1999年の著書『検証・宮沢賢治論』(D文学研究会・星雲社)で「賢治に都合の悪いことを言おうとする研究者に圧力をかけ、「銀河鉄道の夜」の猫によるアニメーション化にも反対し続けた」(最終的には天沢退二郎らの説得により了承し、その仕上がりを評価した)と記している。もっとも「圧力」を裏付ける具体的な事例は示されておらず、この見解が研究者の間で広く共有されているとは言い難い(清六の生前より賢治に好意的ではない評論は複数存在する)。
  4. ^ 1933年1月に誕生した長女は生後2週間で夭逝している[19]

出典

  1. ^ a b 堀尾青史 1977, p. 557.
  2. ^ 堀尾青史 1991, pp. 166–167.
  3. ^ 堀尾青史 1977, pp. 553–554.
  4. ^ 堀尾青史 1977, p. 565.
  5. ^ 堀尾青史 1977, p. 576.
  6. ^ 堀尾青史 1977, p. 589.
  7. ^ 堀尾青史 1977, p. 584.
  8. ^ a b c d 堀尾青史 1977, p. 611.
  9. ^ 堀尾青史 1991, pp. 136–137.
  10. ^ 堀尾青史 1991, p. 400.
  11. ^ a b 堀尾青史 1991, p. 453.
  12. ^ 後藤総一郎, 入沢康夫「体験的書誌学論-『校本宮沢賢治全集』と『柳田国男全集』の編集を通じて-」『図書の譜:明治大学図書館紀要』第1号、明治大学図書館、1997年3月、1-32頁、ISSN 1342-808X、NAID 120005259989。  入沢康夫と後藤総一郎の対談。校本全集刊行決定の経緯が紹介されている)
  13. ^ a b “光太郎の心、今も 東京で空襲、賢治の縁で疎開”. 朝日新聞. (2020年8月22日). https://www.asahi.com/articles/ASN8P6QBHN8LULUC00Z.html 2021年2月28日閲覧。 
  14. ^ a b 宮沢清六「花巻から山小屋までの高村先生」『兄のトランク』筑摩書房、1987年、pp.152 - 157(初出は『文藝』臨時増刊『高村光太郎読本』、河出書房、1956年)
  15. ^ 宮沢清六「焼け残った教材絵図について」『兄のトランク』筑摩書房、1987年、pp.158 - 163(初出は『宮澤賢治 科学の世界-教材絵図の研究』筑摩書房、1984年)
  16. ^ a b 堀尾青史 1991, p. 454.
  17. ^ 宮沢和樹 2021, pp. 45–46.
  18. ^ 「[訃報]宮沢清六さん 97歳 死去=詩人・宮沢賢治の弟、文芸評論家」毎日新聞2001年6月12日夕刊、9頁
  19. ^ 堀尾青史 1977, p. 719.
  20. ^ 宮沢潤子さん訃報。 - 高村光太郎連翹忌運営委員会のblog(2024年4月18日)2024年8月3日閲覧。
  21. ^ 宮沢清六「『修羅の渚』にて」『兄のトランク』筑摩書房、1987年、p.131(初出は『現代日本の文学』6巻、学習研究社の月報、1971年10月)
  22. ^ 入沢康夫「宮沢清六さんのこと」『兄のトランク』筑摩書房<ちくま文庫>、1991年(解説として寄稿)
  23. ^ 宮沢和樹 2021, pp. 176–177.
  24. ^ a b 宮沢和樹 2021, pp. 75–78.

参考文献

関連項目

  • 宮澤清六 (小惑星)
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