小池潜

小池 潜(こいけ ひそむ、1938年 - 2023年11月29日)は、日本の山岳写真家日本山岳写真協会会員、日本山岳会会員。

岐阜県吉城郡上宝村(現在の高山市)出身で高山市在住。日本大学理工学部を卒業とともに小池義清(父)の後を継ぎ、北アルプス双六小屋鏡平山荘わさび平小屋を経営。1988年からは黒部五郎小舎も経営する。そのかたわら、山岳写真を撮り続け、作品を雑誌やカレンダーなどに多数発表。

作風

  • 山や自然を慈しむやわらかな感性、繊細で華麗な色彩表現、精緻な構図。アルプスの四季の移ろいを巧みに捉えた作品は、山岳写真家たちの間で第一級の折り紙がつけられている。(写真集「山の彩り」[1]カバー説明より)
  • 山の写真家がよく口にする「自然と対峙する」というのと全く正反対で、まるで身内と接しているような親しみと優しさのあふれる目で山を見ている。そして口ぐせの「いいやろ、いいやろ」を連発しながら、愛と慈しみをこめて、たんたんと撮り続けているから、彼の作品にはいつもほのぼのとした温かさが漂っている。(写真集「山の彩り」[1]5頁、山岳写真家・山本和雄より)
  • (作品は)槍穂高でさえ明るい表情のものが多い。それはアンダー写真の全盛期に、あえて明るい写真を撮りつづけた山本(和雄)さんと一脈通じる。しかし、山本さんの影響というより、小池さんの持って生まれた資質で、双方がそれに親近感を抱いたのだろう。(写真集「愛しき山稜」[2]105頁、初の写真集「雲ノ平・笠・裏銀座」刊行当時の編集者・木村和也より)
  • 自然は無限に吸収する。その只中で、ただ自分だけの視野に留めておきたいような一瞬があるものだ。彼(小池潜)がシャッターを切るのは、そんな瞬間だろう。この人の写真の独自さ、誰にもまねのできない尊厳の理由でもある。(写真集「愛しき山稜」[2]帯説明、池内紀「山びとの目」より)

略歴

詳細は写真集[1][2]の自伝を参照。

  • 1938年昭和13年) - 岐阜県吉城郡上宝村(現在の高山市)に生まれる。
  • 1950年(昭和25年) - 上宝村村営の双六小屋[3]を小池義清(父)[4]が引き継ぐ[5]
  • 1953年(昭和28年) - 義清に連れられ初めて双六岳へ登る[6]
  • 1954年(昭和29年)~1961年(昭和36年) - 夏休みの都度、双六小屋に入り、歩荷や双六池からの飲料水運びを手伝う[7]
  • 1955年(昭和30年) - 義清らの手により小池新道が開通。
  • 1956年(昭和31年)~1961年(昭和36年) - 山岳画家の中村清太郎[8]が双六小屋を毎年訪れ、双六岳鏡平黒部五郎岳などで絵を描く。潜はイワナ釣りが得意[9]で湯俣や黒部源流にも足を運び、釣ったイワナと交換に絵を描いてもらったこともあった[10]。中村に絵を教わろうともしたが、中村から「身の周りにある茶碗やビンなどを3年間描き続けられたら教えてあげよう」と言われ、実践できず絵の道は断念。
  • 1957年(昭和32年) - 義清らが荷継ぎのための小屋をワサビ平に建設(現在のわさび平小屋)[11]
  • 1962年(昭和37年) - 日本大学理工学部を卒業と同時に、義清から山へ呼び戻される。兄に代わり小屋の経営を任されるようになったが、写真好きの兄から小西六セミパールとマミヤプレス一式を譲り受け、山岳写真家としての一歩を踏み出す。
  • 1963年(昭和38年)~1965年(昭和40年) - 山岳風景画家の足立源一郎が双六小屋へよく通う。1965年(昭和40年)には足立の荷物を背負って槍ヶ岳まで同行。
  • 1965年(昭和40年) - 義清が鏡平に小屋(後の鏡平山荘)を新築して移り、双六小屋は潜が主となる。
  • 1965年(昭和40年)~1971年(昭和46年) - 田淵行男双六小屋に通い、三部作「山の時刻」「山の季節」「山の意匠」を発表。田淵が初めて双六小屋へ入った際、貼られていた岐阜国体(第20回国民体育大会)のポスターを見て「これは誰が撮ったの? なかなかいい写真だね」と褒めた。ポスターの写真は樅沢岳の頂上から槍ヶ岳の夕映えを撮った小池潜の作品だった。以後、田淵の撮影には付いて歩き、夜は遅くまで田淵の話を聞く[12]
  • 1966年(昭和41年)夏 - 新田次郎槍ヶ岳からの帰りに双六小屋を訪問。潜の語った黒部でイワナ釣り最中に起こった出来事の話が、後に設定を変え新田の短編作品「風が死んだ山」にまとめられた。
  • 1972年(昭和47年)11月末 - 山岳写真家の山本和雄の撮影に同行[13]。以後、ほぼ毎年の撮影に同行し写真を教わる[14]
  • 1972年(昭和47年)~ - 前田真三が飛騨を訪れ、撮影地の案内を務める。このときから潜と前田の親交が始まる[15]。撮影現場で構図の決め方を教わったり、前田を通じ写真界の人脈も広がった。
  • 1975年(昭和50年)? - 後に三代目となる岳彦(息子)誕生。
  • 1979年(昭和54年) - 田中澄江が太郎兵衛平方面から縦走し双六小屋に宿泊。その後、何度か双六小屋を訪れる。
  • 1980年(昭和55年) - 田中澄江が随筆集「花の百名山」を発表。双六岳コバイケイソウ鏡平山荘のある弓折岳ムシトリスミレ黒部五郎岳チングルマの咲く山として選定された。
  • 1985年(昭和60年)1月3日 - 山と渓谷社編集者の木村和也が岐阜県吉城郡神岡町の旧宅を訪問、写真集制作の打合せを開始[16][17]
  • 1985年(昭和60年) - 白簱史朗双六小屋に宿泊。雲ノ平への撮影に同行[18]
  • 1985年(昭和60年) - 初の写真集「雲ノ平・笠・裏銀座」[19]刊行。
  • 1987年(昭和62年)- 黒部五郎小舎の経営を、上高地西糸屋山荘経営者の奥原教永から引き継ぐ[20]
  • 1987年(昭和62年) - 写真集「山の彩り」刊行[1]
  • 1988年(昭和63年) - 花の山旅企画[21]「双六山楽共和国」建国[22]。初代大統領には田中澄江が就任[23]双六小屋看板の題字を受ける。写真大臣にはコンタツおじさんこと近藤辰郎が就任、撮影会イベントを担当[24]国鳥ライチョウ、国木はブナ国獣オコジョ国花クロユリを選定。
  • 1989年(平成元年) - 山と渓谷社の企画で山岳写真選集の中の1冊に黒部源流が加わることになった。それを受け、黒部五郎小舎をベースに4月の連休前から撮影を開始[25]、11月始めまで撮影が続いた[26]
  • 1991年(平成3年) - 写真集「黒部源流」刊行[27][28]
  • 1997年(平成9年) - 写真集「奥飛騨‐北アルプスと山里の暮らし」刊行[29][30]
  • 1997年(平成9年)12月6日 - 安房トンネルが開通、長野県側から飛騨へのアクセスが容易になる。
  • 1999年(平成12年)5~6月 - 鏡平山荘を改築[31]
  • 2003年(平成15年) - 写真集「愛しき山稜」刊行[2][32]
  • 2014年(平成26年) - 山小屋の経営を岳彦(息子)に継ぐ[33]
  • 2018年(平成30年) - 月刊「山と渓谷」2018年8月号の誌上で、写真集制作中を発表[34]。2019年刊行が目標[35]
  • 2023年(令和5年) - 11月29日に85歳で死去したことを「山と渓谷オンライン」が2023年12月1日に発表[36]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d 山の彩り (1987)
  2. ^ a b c d 愛しき山稜 (2003)
  3. ^ 村会議員だった小池義清が1933年(昭和8年)、村に山小屋経営の申請をしたが、当時の村長は年間予算の1/10にも及ぶ大金を投じ1935年(昭和10年)に村営の双六小屋を建設。戦争を挟んで登山者は居なくなり、終戦直後は荒れ放題となった。
  4. ^ 義清はアララギ派の歌人でもあった。後に田淵行男の紹介で双六小屋を訪れるようになった画家・加藤陶稜は、アララギ派歌人の斎藤茂吉島木赤彦らに絵を指導する代わりに歌を教えてもらっていたため、義清と話が合った。潜が加藤に歌を教わろうとしたら、一生やる覚悟を尋ねられ、潜は自信がないと答えた。加藤はやめておいた方がよいと忠告した。
  5. ^ 義清、潜の実兄、猟師をしていた潜の叔父、この3人で小屋番を務めた。
  6. ^ 小池新道ができる以前、飛騨側から双六小屋へ行くためには、双六谷をつめるルートを採った。深く険しい金木戸川沿いルートを10数時間も費やして歩く必要があった。潜には、途中の吊り橋やカゴの渡しが珍しくも恐ろしい記憶として残る。
  7. ^ この当時は、山小屋の経営を引き継ごうとは思ってもみなかった。
  8. ^ 黒部五郎岳の名を世に広めた者でもある。
  9. ^ 潜と兄の2人で黒部源流へ行くと、一度に百匹以上のイワナを釣り上げた。当時の双六小屋では、そうして釣り上げられたイワナの塩焼が夕食の名物になっていた。
  10. ^ この当時は音楽で身を立てたいと考え、ギターの練習をしていた。中村からは曲を付けてみなさいと言われ詞を贈られたこともある。
  11. ^ わさび平小屋近くの広場が、現在もヘリコプターでの荷揚げ場所として使われている。
  12. ^ 潜の作品は、当時、山岳写真家の登竜門となっていた山と渓谷社アルパインカレンダーにも何度か採用されていたが、田淵はアルパインカレンダーに採用される写真を山岳写真作品とは認めず「君は生活がかかっていないんだから、ひとつのテーマを持って撮るべきだ」と強く怒った。潜は、写真を発表する場はあれぐらいしかないと反論し、「出すな」「出します」の押し問答になった。最後には田淵が折れ「俺が見てやる」となったが、機会を得る前に田淵は逝去した。
  13. ^ このときはドカ雪の中を2日がかりで鏡平の小屋に辿り着いた。
  14. ^ 潜と山本の親交は、義清が双六小屋の経営を始めた1950年(昭和25年)当時から始まる。山本が「双六が撮れなきゃ駄目だ」と言うと潜は「何を言うか。昔、“双六なんかボタ山だ”と言ったくせに」と反論し、槍穂高だけを被写体にしているようでは一人前の山岳写真家ではないというボタ山談義が続いた。潜は、山本の「朝夕だけが写真じゃない」という持論に付き合って日中の明るい頃に小屋の周辺をよく一緒に歩き回り、撮影を楽しんだ。
  15. ^ 潜が上京のおりには、前田の事務所で何千枚もの写真を見るのが楽しみとなった。
  16. ^ 山本和雄が木村に潜を推薦した。
  17. ^ 当時すでに、潜は山と渓谷社アルパインカレンダーの常連で、投稿のたび特選に入った。その原稿料を溜めてリンホフマスターテヒニカ4×5を購入した。
  18. ^ 白籏の山岳写真に対する真摯な姿勢が勉強になった。
  19. ^ 雲ノ平・笠・裏銀座 (1985)
  20. ^ 当初は黒部五郎小舎に1か月ほど滞在し、写真を撮りながら道直しや小屋の修繕を行った。
  21. ^ わさび平小屋鏡平山荘双六小屋黒部五郎小舎の共通パスポートを作り、圏内を大いに遊び楽しもうという企画。潜は、1日行程で4時間のところを、10時間ぐらいかけゆっくり歩くのが山歩きだと力説した。
  22. ^ 提案者は高山短期大学の学芸員・小野木三郎。潜に「漫画王国」(飛騨まんが王国?)の本を見せ、双六でこれをやろうよと提案した。
  23. ^ 田中澄江は「私は酋長がいいわ」と語った。
  24. ^ このほか、山岳スキー天文動物文化温泉などの各大臣も決定した。
  25. ^ 山スキーの機動力を活かし、赤木沢へ通い続けた。
  26. ^ 三俣蓮華岳手前の丸山にテントを設営、黒部源流に毎日通う。撮影3日目は猛吹雪になった。
  27. ^ 黒部源流 (1991)
  28. ^ この頃の撮影助手は舟橋研一が務めた。
  29. ^ 奥飛騨‐北アルプスと山里の暮らし (1997)
  30. ^ 奥飛騨は風景だけでまとめる思いで撮影を始めた。編集者の強い要望で人間の入った田んぼ写真も撮ることになったが、最初は人物にカメラを向けるのが苦手だった。やがて慣れてくると、生活のある風景には人間が欲しいと思うようになる。
  31. ^ 唐崎計画設計工房プロジェクト 鏡平山荘
  32. ^ この頃の撮影助手は、後に双六小屋支配人となる高橋陽が務めた。
  33. ^ 『月刊「山と渓谷」2016年1月号 「泊まってよかった山小屋」第2位・双六小屋 主人・小池岳彦さん』山と渓谷社、2016年1月、78頁。ASIN B0170CM5SA。 
  34. ^ 『月刊「山と渓谷」2018年8月号・創刊1000号記念特別号 「小池潜 山の写真と編集者たち』山と渓谷社、2018年8月、215頁。ASIN B07F3JBTFP。 
  35. ^ 編集は「愛しき山稜」と同じ節田重節が担当。道・岩・風など山を部分的にとらえた作品が並ぶ予定。
  36. ^ 訃報 双六小屋のオーナー、小池潜さんが死去

写真集

写真展

  • 常時開催(2017年5月現在): 小池潜写真展「北アルプスの四季 愛しき山稜」 新穂高ビジターセンター「山楽館(さんがくかん)」

外部リンク

  • 双六小屋 オーナー紹介
  • 新穂高ビジターセンター「山楽館(さんがくかん)」