少帝 (南朝宋)

少帝 劉義符
第2代皇帝
王朝
在位期間 永初3年5月21日 - 景平2年5月25日
422年6月26日 - 424年7月7日
都城 建康
姓・諱 劉義符
諡号 少帝
生年 義熙2年(406年
没年 景平2年6月24日
424年8月4日
武帝
張夫人
后妃 司馬皇后
年号 景平 : 423年 - 424年

少帝(しょうてい)は、南朝宋の第2代皇帝。姓は劉、名は義符、小字は車兵。

生涯

義熙2年(406年)、劉裕と張夫人のあいだの長男として京口で生まれた。義熙11年(415年)、豫章公世子に立てられた。義熙12年(416年)12月、宋公世子となった。元熙元年(419年)12月、宋王太子となった。永初元年(420年)6月に武帝(劉裕)が皇帝に即位すると、8月に劉義符は皇太子として立てられた。永初3年(422年)5月、武帝が死去すると、劉義符が皇帝として即位した。中書監の傅亮司空徐羨之・領軍将軍の謝晦らが少帝(劉義符)を補佐した。また武帝の死を聞いて北魏の軍が侵攻してきたが、景平元年(423年)4月に檀道済が北伐して虎牢で魏軍を撃破した。少帝は武帝の喪中にあっても礼を守らず、側近たちと馴れ合い、遊戯に節度がなかったため、朝廷の諸官らの失望を買った。景平2年(424年)5月、徐羨之らは皇太后の令と称して少帝を退位させた。徐羨之らは少帝の弟の劉義隆(文帝)を即位させた。

退位した少帝は、営陽王に封じられ、東宮に身柄を移され、さらに呉郡に移されて金閶亭に幽閉された。6月、徐羨之の派遣した中書舎人の邢安泰の手によって殺害された。

伝記資料

  • 宋書』巻4 本紀第4 少帝
  • 南史』巻1 宋本紀上第1 少帝
先代
武帝
宋(劉宋)の皇帝
第2代:422年 - 424年
次代
文帝
南朝の皇帝
  • 武帝(420-422)
  • 少帝(422-424)
  • 文帝(424-453)
  • (劉劭)(453)
  • 孝武帝(453-464)
  • 前廃帝(464-466)
  • 劉子勛(466)
  • 明帝(466-472)
  • 後廃帝(472-477)
  • 順帝(477-479)
  • 武帝(502-549)
  • 蕭正徳(548-549)
  • 簡文帝(549-551)
  • 蕭棟(551)
  • 蕭紀(552-553)
  • 元帝(552-555)
  • 敬帝(555)
  • 蕭淵明(555)
  • 敬帝(重祚)(555-557)
  • 蕭荘(558-560)
  • (西)宣帝(555-562)
  • (西)明帝(562-585)
  • (西)後主(585-587)
  • 蕭銑(618-621)
  • 武帝(557-559)
  • 文帝(559-566)
  • 廃帝(566-568)
  • 宣帝(569-582)
  • 後主(582-589)
  • 表示
  • 編集