平井毓太郎
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ひらい いくたろう 平井 毓太郞 | |
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生誕 | 1865年11月28日 三重県 |
死没 | (1945-01-12) 1945年1月12日(79歳没) |
居住 | 日本 ドイツ帝国 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 医学 |
研究機関 | 京都府立医学校 京都帝国大学 |
出身校 | 帝国大学医科大学卒業 |
指導教員 | エルヴィン・フォン・ベルツ |
主な指導学生 | 竹內薰兵 |
主な受賞歴 | 帝国学士院賞(1932年) |
プロジェクト:人物伝 | |
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平井 毓太郎(ひらい いくたろう、1865年11月28日(慶応元年10月11日) - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の医学者、小児科医。京都帝国大学教授。旧姓木場。三重県出身。
プロフィール
- 1890年 東京帝国大学医科卒業
- 1894年 京都府立医学校(現京都府立医科大学)教諭
- 1899年 ドイツ留学
- 1902年 京都帝国大学医科小児科初代教授
- 1924年 授乳中の乳幼児に見られた脳膜炎様病症の原因を、母親が使う含鉛白粉による鉛中毒であることを発見、日本小児科学会で報告した
- 1925年 定年退官。その後も京都の小児科医を集めて月に一度講義を行う
- 1932年 帝国学士院賞受賞
- 1944年 帝国学士院会員
人物
- ベルツの弟子で、代診を命じられるほど信頼を置かれた。
- 健康のため、早朝と午後の散歩を日課とした。一日2里(8キロ)は歩き、常に歩数計を身につけていた。
- 数十年にわたって一人暮らしだったが、夏にも袴をつけるなど、厳格な暮らしぶりを通した。
- 英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を日々欠かさなかった。その成果は、月に一度の小児科医への講義に反映された。数年前に抄録した内容を思い出し、わざわざ屋根裏部屋にノートをとりに行く平井の姿を、参加者のひとり松田道雄はエッセイにとどめている。
- 東大医学部の医学生時代に同期だった伊藤隼三と親交が深く,卒後はそれぞれ内科のベルツ,外科のスクリバに師事した.後に二人とも京都帝国大学の教授として再会.平井は初代小児科学講座教授,伊藤は初代外科学第二講座教授として活躍した.
家族
娘・照子の婿・平井金三郎は岩村高俊の三男[1]。
門下生
- 竹內薰兵[2]
脚注
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参考文献
- 松田道雄「両棲類的読書法」『私の読書法』(岩波新書、1960年)
- 北村晋吾『平井毓太郎伝』(1997年)