張鎮芳
張鎮芳 | |
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プロフィール | |
出生: | 1863年(清同治2年) |
死去: | 1933年(民国22年) 中華民国天津市 |
出身地: | 清河南省陳州府項城県 |
職業: | 政治家・官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 張鎮芳 |
簡体字: | 张镇芳 |
拼音: | Zhāng Zhènfāng |
ラテン字: | Chang Chen-fang |
和名表記: | ちょう ちんほう |
発音転記: | ジャン ジェンファン |
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張 鎮芳(ちょう ちんほう)は清末民初の政治家・官僚。北京政府の要人で、張勲復辟にも加担した。字は馨庵。
事跡
1892年(光緒18年)、壬辰科進士となる。以後、翰林院編修、戸部主事、北洋銀元局会弁、永七塩務局総弁、陸軍糧餉局総弁、行営営務処総弁、清理財政局総弁、禁煙局総弁、直隷銀行督理、財政総匯処幇弁、湖広総督後路軍軍需局総弁、長蘆塩運使兼護直隷梟司、湖南提法使、度支部承参行走などを歴任した。
中華民国が成立すると、1912年(民国元年)2月に署直隷都督、次いで同年3月、署河南都督に任命された。7月8日、洛陽に駐屯していた第12混成協(統領官:周符麟(中国語版))の将兵が暴動を起こす(洛陽兵変)と、周とともに巡防軍巡警守衛を派遣し鎮圧[1]。同年10月、正式に河南都督に任命され、翌年1月、民政長を兼任した。しかし、白朗討伐に無力であったため、袁世凱から罷免されてしまう。1914年(民国3年)2月、参政院参政に異動し、1915年(民国4年)の袁の皇帝即位を支持した。
1916年(民国5年)6月に袁世凱が死去すると、張鎮芳は張勲を頼る。1917年(民国6年)7月の張勲復辟の際には、内閣議政大臣、度支部尚書となった。復辟失敗後、張鎮芳は逮捕されて刑罰を科される。1920年(民国9年)に釈放された。以後は天津で塩業銀行経理兼董事長をつとめた。
1933年(民国22年)、病没。享年71。
子はおらず、甥の張伯駒(中国語版)が養子となった。
脚注
- ^ 田子渝 劉徳軍 (1989). 中国近代軍閥史詞典. 档案出版. p. 450
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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清(張勲復辟)
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