曺植
この項目では、李氏朝鮮の儒学者について説明しています。中国の三国時代の人物については「曹植」をご覧ください。 |
曺植 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 조식 |
漢字: | 曺植 |
発音: | チョ=シク |
日本語読み: | そう しょく |
ローマ字: | Jo Sik |
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曺 植(そう しょく、ユリウス暦1501年6月26日(大統暦弘治十四年五月二十七日) - ユリウス暦1572年2月8日(大統暦隆慶六年一月初八日))は李氏朝鮮の儒学者、政治家、詩人。字は楗仲(건중、コンジュン)。[1] 号は南冥、昌寧人。本貫は昌寧曺氏。李滉(退渓)、李珥(栗谷)と並んで、朝鮮朱子学における三大儒と称される。
経歴
慶尚道に生まれ。経伝子史を遍く勉学し、天文地誌、医方学にも意を注いだ。1519年の己卯士禍を契機に旧学の是ならざることを悟り、六経四書、程朱学の書籍に学び、自らの「南冥学」を完成させ、次第に名声を慕って従学する者が増えた。1545年の乙巳士禍を契機に、仕官の徴命を固辞して隠棲し、後進の育成に専念した。
著書
- 『南冥集』
- 『南冥學記』
- 『神明舍圖』
- 『破閑雜記』
- 『南冥學記類編』
- 『南冥歌』
- 『勸善指路歌』
脚注
- ^ アナバコリア / 山清郡 南冥曺植遺跡 남명조식유적
参考文献
- 「アジア人物史 第7巻」集英社 2022年
関連項目
外部リンク
- 南冥學問研究所
- 南冥學古文獻 : 文泉閣
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