朴賢明
基本情報 | |
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国籍 | 北朝鮮 |
出身地 | 日本統治下朝鮮 平壌 |
生年月日 | 1911年 |
没年月日 | 没年不明 |
身長 体重 | 179 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1938年 |
初出場 | 1939年 |
最終出場 | 1939年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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朴賢明 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 박현명 |
発音: | パク ヒョンミョン |
日本語読み: | ぼく けんめい |
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朴 賢明(ぼく けんめい、パク ヒョンミョン、1911年 - 没年不明)は、朝鮮出身[1]の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
平壌高等普通学校から全京城に進み、1938年に第12回都市対抗野球大会にも出場してチームの準優勝に貢献した[2][3]。京城府(現ソウル特別市)の実業団で投手を務めていたと伝わる[3]。朝鮮遠征中だった明治大学硬式野球部と対戦し、7回までノーヒットに抑えた事が大阪タイガース関係者の目に止まった[2]。
1938年途中[4]タイガースへ入団。しかし当時のチームの投手陣の層は厚く、1939年に2試合登板して1敗の成績を残したが、実際は打撃投手としての活動が主であり[4][1]、1939年限りで退団。その後は北朝鮮に在住した[1]。三美スーパースターズ(後の現代ユニコーンズ。2007年解散)の初代監督を務めた朴賢植(朝鮮語版)は弟に当たる。
松木謙治郎は自著・『タイガースの生いたち』で、東映フライヤーズ監督時代の1969年、大韓民国遠征で弟の朴賢植と会ったが「兄は平壌にいる」と再会できなかった無念を書いている[3]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1939 | 大阪 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 39 | 8.1 | 12 | 0 | 3 | -- | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1.08 | 1.80 |
通算:1年 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 39 | 8.1 | 12 | 0 | 3 | -- | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1.08 | 1.80 |
背番号
- 20 (1938年途中 - 1939年)
脚注
[脚注の使い方]
- ^ a b c 森岡浩 『プロ野球人名事典 2003』 日外アソシエーツ、2003年、508頁。
- ^ a b 朴賢明 ~ げんまつWEBタイガース歴史研究室 - ZAQ
- ^ a b c 猛虎人国記(18)~外地~ スポーツニッポン、2012年3月27日記事。
- ^ a b 『週刊プロ野球データファイル 076号』 ベースボール・マガジン社、3頁。
参考文献
- 日本野球機構 『日本プロ野球記録大百科 2004』 ベースボール・マガジン社、2004年、2010頁。
関連項目
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