渡辺大陸
渡辺大陸(左)と宮武三郎(右) | |
基本情報 | |
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出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | (1901-07-08) 1901年7月8日 |
没年月日 | (1955-12-11) 1955年12月11日(54歳没) |
身長 体重 | 179 cm kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
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渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 1955年12月11日)は、兵庫県出身のプロ野球監督。
来歴・人物
神戸二中を経て1920年(大正9年)に明治大学予科に入学し[1]、野球部の剛球投手として活躍したが[2]、大学生活4年目の1923年(大正12年)に学歴詐称が発覚して明大を退学する[1][3]。
台北交通団ではエースとして1931年の第5回全日本都市対抗野球大会で準優勝に貢献[2]。
戦後は1946年シーズン終了後、宇高産業社長の宇高勲から宇高レッドソックス監督として迎えられるが、チームは日本野球連盟に加盟を拒否された。その後宇高が会長となった国民野球連盟の発足に尽力した。1950年には大洋ホエールズの総監督(初代監督)に就任したが、総監督的な立場で実際の指揮は中島治康に任せていたという[2]。それでも勝率5割を超える好成績を残した[2]。翌年中島治康を監督に置き、退団。
エピソード
明治大学時代は「ヨヤハッ、ヨヤハッ」と奇声を発しながら投球し、球速は非常に速かったと言われている。ただしコントロールは悪かったため、1922年の早大戦では打者3人連続して死球で負傷に追いこみ、相手から恐れられた[4]。
詳細情報
年度別監督成績
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 | チーム 打率 | チーム 防御率 | 年齢 | |
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1950年 | 昭和25年 | 大洋ホエールズ | 5位 | 140 | 69 | 68 | 3 | .504 | 31.0 | 111 | .273 | 4.47 | 49歳 |
背番号
- 50 (1950年 - 1951年)
脚注
- ^ a b 大和球士 『真説 日本野球史 《大正篇》』 ベースボール・マガジン社、1977年、229-230頁
- ^ a b c d [完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P100
- ^ 当時の学制では5年制の旧制中学校卒業または4年修了(四修)でなければ大学予科に進学できなかったが、渡辺は神戸二中3年修了であり、飛び級は不可能であった。
- ^ 武陽野球倶楽部. “9陽会 渡辺大陸氏”. 2010年6月27日閲覧。
関連項目
大洋ホエールズ監督 1950 | |
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