米津常春
凡例 米津 常春 | |
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 1524年 |
死没 | 慶長17年(1612年)11月[1][2] |
別名 | 藤蔵[3][1] |
戒名 | 浄心[3][1] |
主君 | 松平広忠、徳川家康 |
氏族 | 米津氏 |
父母 | 父:米津勝政[1][2] |
兄弟 | 常春、政信[1][2] |
子 | 正勝、春親、春忠、女子[2] |
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米津 常春(よねきつ つねはる)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。徳川家康に仕え、徳川十六神将の一人に数えられる[4]。
生涯
三河国の有力国人松平氏に歴仕した米津勝政の子。自身も13歳より松平氏に仕え、天文18年(1549年)安城合戦では自ら槍を取って勇戦する。その後も徳川家康の部将として、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの前哨戦である丸根砦攻めでは家康の護衛を務めた。以後も家康の三河平定軍に従軍し、永禄6年(1563年)三河一向一揆平定、永禄7年(1564年)宝飯郡赤坂の戦いに従軍。生涯で戦功は18度、一番槍13度、手傷73か所を数え、禄高は3000石を領した[3][1][2]。だが若くして目を病み、後年には失明して蟄居した[3]。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは家康に供奉。慶長17年(1612年)江戸において没[1][2]。
脚注
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