藤田静夫
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名前 | ||||||
カタカナ | フジタ シズオ | |||||
ラテン文字 | FUJITA Shizuo | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 | 1911年2月5日 大日本帝国, 京都府京都市 | |||||
没年月日 | (2002-09-27) 2002年9月27日(91歳没) 日本, 京都府京都市 | |||||
ユース | ||||||
1925-1930 | 京都府師範学校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
京都紫光クラブ | ||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
藤田 静夫(ふじた しずお、1911年2月5日 - 2002年9月27日)は、京都府京都市出身のサッカー選手。第6代日本サッカー協会会長。日本体育協会理事、京都府体育協会会長、京都市体育協会会長等を歴任。サッカー指導者の辛島啓珠は孫に当たる[1]。
経歴
京都府師範学校(現在の京都教育大学)在学時にサッカーを始め、1928年の第10回全国中等学校蹴球選手権大会(現在の全国高等学校サッカー選手権大会)に出場。1930年の第12回大会にも出場した。
1930年に卒業後は京都府の教員を経て、京都府庁に入庁した。また、1935年より京都府蹴球協会(現・京都府サッカー協会)理事長、1947年からは同協会の会長にそれぞれ就任。京都サッカー界の発展に尽力し、釜本邦茂、柱谷幸一、哲二兄弟らの日本代表選手を輩出する土壌を築いた。選手としても京都紫光クラブに在籍した[2]。
1954年より日本サッカー協会(JFA)の常任理事、1976年からJFA副会長、1987年からはJFA会長に就任した。日本経済界の重鎮でもなく、日本代表への選出歴もない藤田の抜擢は異例の事であったが、1992年までの在任期間中には、日本プロサッカーリーグ、日本女子サッカーリーグ、全日本ユース選手権の創設、FIFAワールドカップ招致活動などに尽力した。
2002年9月27日、京都府京都市で肝不全により死去した[3]。享年92。
受賞歴
参考文献
- 賀川サッカーライブラリー『京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)』
脚注
外部リンク
- 日本サッカー人物史 - 日本サッカーアーカイブ
- 藤田静夫CUP
日本サッカー協会歴代会長 | |
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日本サッカー協会 | |
初代: 今村次吉 (1921年 - 1933年) | 2代: 深尾隆太郎 (1935年 - 1945年) | 3代: 高橋龍太郎 (1947年 - 1954年) | 4代: 野津謙 (1955年 - 1976年) | 5代: 平井富三郎 (1976年 - 1987年) | |
カテゴリ |
日本サッカー殿堂 | |
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