赤間神宮
赤間神宮 | |
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鳥居と水天門 | |
所在地 | 山口県下関市阿弥陀寺町4-1 |
位置 | 北緯33度57分35.0秒 東経130度56分54.5秒 / 北緯33.959722度 東経130.948472度 / 33.959722; 130.948472座標: 北緯33度57分35.0秒 東経130度56分54.5秒 / 北緯33.959722度 東経130.948472度 / 33.959722; 130.948472 |
主祭神 | 安徳天皇 |
社格等 | 旧官幣大社 別表神社 |
創建 | 貞観2年(859年) |
例祭 | 5月2日 - 4日(先帝祭) 10月7日 |
地図 | 赤間神宮 |
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赤間神宮(あかまじんぐう)は、山口県下関市にある神社。旧社格は官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて入水した安徳天皇を祀る。
江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、前身の阿弥陀寺は『耳なし芳一』の舞台であったが、廃仏毀釈により神社となり現在に至る。
歴史
貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開闢。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかったが、赤間関(下関)に建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた。以後、勅願寺として崇敬を受ける。
明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が明治22年(1889年)7月25日、「擬陵」として公式に治定された。天皇社は明治8年(1875年)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格した。
昭和15年(1940年)8月1日、官幣大社に昇格し、赤間神宮に改称した。
第二次世界大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工した。
昭和38年(1963年)9月には当時の皇太子(明仁親王)が参拝した[1]。
昭和60年(1985年)、源平八百年を期に石川県の輪島市にある平時忠の子孫「時国家」に分霊が親授された。その際に邸内社が建立され「能登安徳天皇社[2]」の称号が授与された。
境内
- 安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)
- 日本西門鎮守八幡宮
- 大連神社
- 紅石稲荷神社
- 平家一門の墓(七盛塚) - 壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓(供養塔)。以下14名の供養塔が並び、名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する。
- 芳一堂 - 『耳なし芳一』を祀り、芳一の木像を安置する。
- 水天門 - 神門は竜宮城を模した竜宮造の楼門。「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる。
安徳天皇縁起絵図
赤間神宮に伝わる襖絵。土佐光信筆という。
- 第一巻「安徳天皇ご生誕」
- 第二巻 「後白河法皇御幸」
- 第三巻 「後白河法皇還御」
- 第四巻 「生田の森の合戦」
- 第五巻 「一の谷の合戦」
- 第六巻 「那須の与一扇の的」
- 第七巻「壇の浦合戦」、第八巻「安徳天皇御入水」
平家一門の肖像
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- 廊御方
文化財
- 重要文化財
- 登録有形文化財[3]
- 水天門
- 回廊
画像
- 拝殿
- 七盛塚
- 七盛塚名前
- 芳一堂
- 水天門
- 水天門(本殿側より)
年中行事
- 平家雛流し神事(3月上旬)
- 先帝祭(5月2日 - 4日) - 安徳天皇の命日に行われる。2日は平家落人の子孫らで組織される全国平家会の参列のもと御陵前での神事を始め、平家一門追悼祭などがある、3日は豪華絢爛な外八文字道中の他、唐戸から壇ノ浦付近の海上での「源平船合戦」などが行われる。(詳細は「先帝祭」参照)
- 耳なし芳一琵琶供養祭(7月15日)
- うに供養祭(10月中旬)
- 秋季例大祭(10月7日)
- しめなわ祭(12月10日)
交通
サンデン交通「赤間神宮前」バス停下車
脚注
参考文献
関連図書
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、2頁
- 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、6頁
- 上山春平他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、244-245頁
関連項目
外部リンク
- 赤間神宮(公式サイト)
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