醍醐輝久
凡例 醍醐輝久 | |
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時代 | 江戸時代中期-後期 |
生誕 | 宝暦10年6月13日(1760年7月25日) |
死没 | 享和元年7月25日(1801年9月2日) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後桃園天皇→光格天皇 |
氏族 | 醍醐家 |
父母 | 父:醍醐経胤、母:お升(宗義誠の娘) 養父:醍醐冬香 |
兄弟 | 冬香、輝久 |
妻 | 蜂須賀幸子(蜂須賀重喜の娘)(一条輝良の養女) |
子 | 輝弘、隆生、信子 |
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醍醐 輝久(だいご てるひさ)は、江戸時代中期から後期の公卿、廷臣。後陽成天皇の男系五世子孫(来孫)である。
概要
後桃園天皇(118代)・光格天皇(119代)の二帝にわたって仕え、官位は正二位・権大納言まで昇った。
生涯
父・経胤の死後、醍醐家当主となった義兄の兼純(経胤の養子)、実兄の冬香(兼純の養嗣子)がいずれも早世し、安永元年(1772年)冬香の死に伴い家督を継ぎ、同年叙爵。以降清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従・右近衛権少将・左近衛権中将をへて、安永5年(1776年)に従三位に達して公卿に列する。その後、踏歌節会外弁・権中納言を経て、寛政元年(1789年)に権大納言となり、享和元年(1801年)に職を辞した。同年中に薨去。享年42。
家族・親族
系譜
醍醐家
醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。
詳細は「醍醐家」を参照
皇室との関係
後陽成天皇 | 後水尾天皇 | 明正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後光明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後西天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
霊元天皇 | 東山天皇 | 中御門天皇 | 桜町天皇 | 桃園天皇 | 後桃園天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 典仁親王 | 光格天皇 | 仁孝天皇 | 孝明天皇 | 明治天皇 | 大正天皇 | 昭和天皇 | 明仁上皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一条昭良 | 一条教輔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
醍醐冬基 | 醍醐冬熙 | 醍醐経胤 | 醍醐輝久 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 係累縁者が多数に上るため、後陽成天皇以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。
- 高祖父の一条昭良は、後陽成天皇の第九皇子として生まれ、一条内基の養子となり、一条家を継承した。
- 曾祖父の醍醐冬基は、一条昭良の子として生まれ、醍醐家を興した。
脚注
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