高見昌宏
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 三重県南牟婁郡鵜殿村(現:紀宝町)[1] |
生年月日 | (1968-07-11) 1968年7月11日(56歳) |
身長 体重 | 183 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1986年 ドラフト外 |
初出場 | 1996年5月29日 |
最終出場 | 1996年9月7日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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高見 昌宏(たかみ まさひろ、1968年7月11日 - )は、三重県出身の元プロ野球選手(捕手)。
来歴・人物
木本高校では2年夏の県大会ベスト4、秋は3位で東海地区大会に出場すると享栄高の近藤真一の前に敗退し、甲子園には出場できなかった[1]。中学、高校共に4番捕手だった[1]。卒業後は愛知学院大学に進学予定だったが、1986年オフにドラフト外で読売ジャイアンツへ入団した[1]。
プロ10年目の1996年5月28日、16対2の大差がついた試合に仁志敏久の代打で初出場を果たし、プロ初打席を安打で飾るが、その後出番はなく二軍落ち。再昇格後、9月7日の対広島戦で初めて一軍マスクをかぶるが、木田優夫の球を捕れずサヨナラワイルドピッチを演じた。この投球は、「ワンバウンドもしていない球。すみません」[2]と本人が述べたように「実質的に捕逸」[2]と評され、またこの試合の延長10回表には無死二塁で送りバントを試みるも三塁封殺となる[2]ミスもあり、結局二軍落ちとなった[1]。その後は一軍での出場がなく、これが一軍で守備についた唯一の試合となった。その年は二軍では41試合で.277、7本と好調で、日本シリーズ第1戦で村田真一が負傷したため、急遽黒潮リーグから呼ばれて第2戦のベンチ入りをしている。
1997年限りで現役を引退[1]。引退後は二軍用具係[1]、読売ジャイアンツの一軍マネージャー等を務めるなど裏方としてチームを支え、2022年現在はホームタウン推進部長兼ジャイアンツ球場長を務めている。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1996 | 巨人 | 2 | 2 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .500 | .500 | .500 | 1.000 |
通算:1年 | 2 | 2 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .500 | .500 | .500 | 1.000 |
年度別守備成績
年度 | 試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 |
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1996 | 1 | 0 | 0 | 0 | .― |
記録
背番号
- 69 (1987年 - 1993年)
- 64 (1994年 - 1997年)
脚注
- ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、325ページ
- ^ a b c 読売新聞1996年9月8日17面
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 高見昌宏 - NPB.jp 日本野球機構
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