鳥取大火
鳥取大火 | |
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炎上する鳥取市街 | |
現場 | 日本・鳥取県鳥取市 |
発生日 | 1952年(昭和27年)4月17日 14時55分 |
類焼面積 | 160ha |
原因 | 不明 |
死者 | 3人[1] |
負傷者 | 不明 |
鳥取大火(とっとりたいか)は、1952年(昭和27年)4月17日から4月18日にかけて鳥取県鳥取市で起きた大火[1]。
鳥取市大火災(とっとりしだいかさい)、鳥取大火災(とっとりだいかさい)とも呼ばれる。戦後日本においては1947年(昭和22年)4月20日の飯田大火に次いで2番目の焼損面積となる大火である[2]。
経過
出火
1952年(昭和27年)4月17日14時55分、鳥取駅前にあった市営動源温泉付近から出火[3]。折からフェーン現象による最大瞬間風速15メートルという強い南風が吹き荒れており、日中の最高気温が25.3℃に達し、湿度は28%と乾燥していた。火勢は飛躍的に拡大し、付近の商店街や民家に飛び火しながら市街地を北へ扇状に直進した。
鳥取市消防本部および市消防団は「袋川を越えさせるな」と懸命の消火作業に当たった。市街地の中心部を流れる袋川は、かつては鳥取城の外堀の役目を果たしており、袋川の内側には県庁や市役所などの官庁、さらに学校や住宅が密集していたためである。しかし、さらに勢いを増す火は袋川を飛び越え、旧城下町にあった住宅地や官庁にも燃え広がった。
延焼
フェーン現象による強い南風にあおられ[4]、市内各所で飛び火による火の手が上がった。県内各市町村から消防隊が救援に駆けつけていたが、当時あった6台の消防車も3台は修理中、出動した3台もうち2台は故障で1台しかまともに使えず、上水道の水量や水圧も低すぎて手の施しようがない状態であったという。
夜になっても火はますます勢いを増し、焼失速度は1分間に家屋7戸強であった。強風にあおられて市街の最北端・湯所にあった天徳寺も炎上した他、愛宕神社・丸山・覚寺峠の山林を焼き、岩美郡福部村(現・鳥取市)との境界にあった摩尼寺付近まで飛び火した。
出火から12時間が経過した4月18日の午前4時[1]、鳥取市を焼き尽くした火はようやく鎮火した。鳥取市街最南端だった出火点から市街最北端の湯所や摩尼寺まで、延焼した距離は6キロメートルに及んだ。
被害
被災者2万451人。死者3人。被災家屋5,228戸。被災面積160ヘクタール。被害総額193億円[1]。戦後日本においては1947年(昭和22年)4月20日の飯田大火に次いで2番目の焼損面積となる大火である[2]。当時の鳥取市の人口は6万1千人、世帯数は1万3千だったため、市民の半分近くが被災したことになる。
鳥取市は戦争中は空襲を受けなかったが、1943年(昭和18年)9月に鳥取大震災によって大きな被害を受けていた。敗戦の痛手と鳥取大震災の被害からの復興がようやくなった時期のこの災害が、鳥取市民に与えた損害は大きかった。
戦後の日本における主要な大火
1947年04月20日 飯田大火(長野県飯田市) | 48.2万m2 |
1952年04月17日 鳥取大火(鳥取県鳥取市) | 44.9万m2 |
1954年09月26日 岩内大火(北海道岩内町) | 32.1万m2 |
1955年10月01日 新潟大火(新潟県新潟市) | 21.4万m2 |
1949年02月20日 能代大火(秋田県能代市) | 21.0万m2 |
1956年09月10日 魚津大火(富山県魚津市) | 17.6万m2 |
1956年08月18日 大館大火(秋田県大館市) | 15.7万m2 |
1976年10月29日 酒田大火(山形県酒田市) | 15.2万m2 |
1950年04月13日 熱海大火(静岡県熱海市) | 14.2万m2 |
1946年05月08日 村松大火(新潟県村松町) | 13.5万m2 |
原因
これだけの大きな被害をもたらした大火災だが、出火原因は現在でも不明である[5]。まず第1出火点として、8月17日14時30分頃、吉方290番地の木造平屋建の空き家で出火したが、消防車が出動し消し止められた。ところがこの直後の15時2分頃、第1出火点から約17m離れた市営動源温泉屋上の湯気抜き鎧戸から火炎が噴き出して第2出火点となった。こちらは南からの強風に吹き煽られて消火できず、延焼を続けて大火につながった[3]。
- 第1出火点となった空き家は、杉皮葺き屋根の一部を焼いたのみで鎮火している。この空き家では、出火直前まで3人の作業員がシイタケ原木の穴あけ作業をしており、その作業に使用した電動ドリルが過熱して杉皮葺き屋根に燃え移ったのではないかと見られ、作業員3人が取り調べを受けたが証拠不十分となった。
- 第2出火点では、鳥取駅信号所にある暖房用煙突からの飛び火が原因ではないかといわれ[6]、信号所の責任者2人が取り調べを受けたが、これも証拠不十分で不起訴になっている。
復興
鳥取大火が起きた頃の鳥取市街は、旧城下町の名残で道幅が狭く、それが消防隊の活動を妨げた面があった。火災の後の都市計画では街路拡張が行われた他、地域の区画整理事業により整然とした市街地が形成された。
鳥取大火の翌日には建設省の幹部が鳥取市を視察。5月に耐火建築促進法が国会で可決された。8月には鳥取市若桜街道筋などが耐火建築促進法に基づく全国初の防火建築帯指定を受け、1955年(昭和30年)までに地上3階以上のコンクリートまたはブロック造りによる94棟の建造物が完成した。
鳥取市と鳥取県庁は被災から3年後の1955年3月に大火からの復興をまとめた『鳥取市大火災誌 復興編』を発刊している。
大火の痕跡
この大火で鳥取市の旧市街地はほぼ全滅したが、猛火の中にあって旧鳥取県立図書館、旧県会議事堂、五臓圓ビル、元大工町の高砂屋、戎町の富士銀行鳥取支店(現在は島根銀行)は奇跡的に焼失を免れた。旧鳥取県立図書館の建物は、老朽化のため保存が困難とされ、鳥取童謡おもちゃ館・わらべ館建設の際に取り壊された(外観の一部が復元されている)。また旧県会議事堂は仁風閣と同様の外観を残す貴重な明治建築だったが、老朽化が著しく昭和50年代後半に同じく取り壊された。
五臓圓ビルと高砂屋は旧態どおりに補修され、現在は市民交流の場となっている。この2つの建物は、ともに国の登録有形文化財に登録されている。当時の姿をそのまま残す建造物は五臓圓ビルと高砂屋の他に、鹿野街道に面した鳥取市西町に当時の商家の土蔵1棟がある。老朽化と荒廃が激しいが、こちらも鳥取大火をくぐり抜けた貴重な建造物である。また、富士銀行鳥取支店は若桜街道に面して建ち、焼け止まりとなって後背地の延焼を防止する役割を果たした[7][8][9]。また、大火後の一時期、店舗を焼失した日本銀行鳥取事務所が富士銀行支店内に移転していた[10]。
2012年(平成24年)4月16日、大火の様子を収めた「鳥取大火復興記念写真帖1953」が鳥取県庁の倉庫から発見されたと発表された。当時の鳥取県土木部建築課が作成したもので86点のうち76点は未公開の写真。焼け野原になった市街地や大火後の復旧・復興の様子も収められている他、「復興だ 頑張ろう」と書かれた貼り紙を撮影したものもあり、大火の被害、復興の様子を知る上での貴重な資料となる。以後は鳥取県立公文書館に移管され同年度中に公開された[11][12][13][14]。
脚注
- ^ a b c d ご存知ですか、鳥取大火,鳥取県東部広域行政管理組合(2006年2月12日時点のアーカイブ)
- ^ a b 昭和20年代の消防 消防防災博物館
- ^ a b 鷲見貞雄「鳥取市大火災」『鳥取の災害』61-69ページ
- ^ フェーン現象,松江地方気象台
- ^ 自治省消防庁『火災の実態と消防の現状』昭和39年版では「機関車の飛び火」としている。出典は小学館編『世界原色百科事典 2 おた-きり』小学館、昭和41年、p.173「火災」。
- ^ 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、86頁。ISBN 9784816922749。
- ^ 鳥取県公文書館「鳥取大火の初公開写真・平成28年度企画展パンフレット」
- ^ 鳥取大火災・秘話
- ^ 鳥取大火図(『鳥取の災害』63ページ)を見ると、若桜街道沿いにあった富士銀行から北東側が切り取ったように延焼を免れていることがわかる。
- ^ 日本銀行鳥取事務所WEBサイト
- ^ 鳥取大火 大量の未公開写真見つかる:NHKニュース、2012年4月18日[リンク切れ]
- ^ 鳥取大火、復興の軌跡:朝日新聞2012年4月18日[リンク切れ]
- ^ 鳥取大火から60年「復興記念写真帖」見つかる(2012年4月19日時点のアーカイブ):日本海新聞、2012年4月16日
- ^ 忘れ得ぬ惨禍の記憶、鳥取大火から60年(2012年4月19日時点のアーカイブ):日本海新聞2012年4月17日
参考文献
- 芦村登志雄・鷲見貞雄『鳥取の災害―大震災・大火災―』(郷土シリーズ34) 財団法人鳥取市社会教育事業団 昭和63年(1988年)
- 鳥取市大火災誌編纂委員会『鳥取市大火災誌 災害救護篇』鳥取県庁・鳥取市 昭和28年(1953年)
- 鳥取市大火災誌編纂委員会『鳥取市大火災誌 復興編』鳥取県庁・鳥取市 昭和30年(1955年)
- 『鳥取大火と気象概報』鳥取測候所 昭和27年(1952年)
- 『報道で綴る鳥取大火災』井上浚 平成23年(2011年)