鵜月洋

鵜月 洋(うづき ひろし、1918年大正7年〉11月29日 - 1965年昭和40年〉6月12日)は、日本国文学者。専門は、近世日本文学及び宣伝広告文。

来歴・人物

1918年11月29日千葉県銚子市に生まれる[1]

第二早稲田高等学院を経て、1939年4月1日旧制早稲田大学文学部文学科国文学専攻に入学[1]学徒出陣のため、1941年12月25日に繰り上げ卒業となる[2]卒業論文暉峻康隆の指導の下、江戸戯作洒落本)をテーマとし[3][4]、成績優秀だったため優等賞を受けた[5][注釈 1]

1942年4月1日に早稲田大学大学院に入学[1]。同年9月27日には論文「近世後期写実小説の研究」に教職員賞が与えられた[6][7][注釈 2]。同年9月の城右高等女学校教諭、1944年9月から日本文学報国会主事となる。その後、指導教授である暉峻康隆が応召されたため、1945年3月に大学院を退学[1]。更に終戦に伴い、同年8月に日本文学報国会が解散したため主事を辞任し、同年9月から中央公論社嘱託、地平社編集主任となる[1]

1949年から早稲田大学大正大学等の講師を経て、1963年早稲田大学政治経済学部専任講師となる[1]。また、講師を勤める傍ら、1955年から日本近世文学会事務局長も歴任する[1]

1965年6月12日膠原病による腸内出血多量のため死去[1][8]。享年46歳。告別式は同年6月14日に自宅で行われた[9]

生前に着手していた雨月物語及び宣伝文の研究は、暉峻康隆の指示により、後輩である中村博保及び中野三敏の助筆を得て、『雨月物語評釈』及び『広告文の歴史』として死後刊行された[3][10]

著書

単著

共著・共編

  • 稲垣達郎(執筆・編輯担当)、山路平四郎(編輯担当)、鵜月洋(編輯担当)、高橋春雄(編輯担当)『早稲田大学七十年誌』早稲田大学、1952年10月。 NCID BN03078564。全国書誌番号:59009139。 
  • 今井卓爾、鵜月洋『国文古典物語文学 研究と鑑賞』開文社、1955年8月。 NCID BN14596469。 
  • 水野稔、鵜月洋『江戸町人文学』岩波書店〈岩波講座日本文学史 第7巻〉、1958年7月。 NCID BN08684233。全国書誌番号:65004599。 
  • 福田清人増淵恒吉、鵜月洋『高等学校作文』角川書店、1961年4月。全国書誌番号:21357568。 
  • 福田清人、増淵恒吉、鵜月洋『高等学校作文 指導参考書』角川書店、1961年9月。 
  • 塩田良平など12氏共編 編『古典甲』実教出版、1963年1月。 
  • 塩田良平など10氏共編『古典乙Ⅰ古文』実教出版、1963年1月。 
  • 鵜月洋、中村博保『西鶴名作選 口語訳・文法傍注式』守随憲治監修、評論社〈ニュー・メソッド国文対訳シリーズ 22〉、1963年12月。全国書誌番号:21223376。 

訳注

論文

  • 「平賀源内の戯曲」『国文学研究』第1巻、早稲田大学国文学会、1949年10月、41-62頁、NAID 120005480008。 
  • 「書評 定本西鶴全集(第二巻、第八巻)」『国文学研究』第2巻、早稲田大学国文学会、1950年5月、151頁、NAID 120005480030。 
  • 「洒落本の発生 ――庶民文学をうみ出したのが、庶民ではなかつたといふ歴史――」『国文学研究』第4巻、早稲田大学国文学会、1951年6月、52-72頁、NAID 120005480050。 
  • 「近世における小説論――展望と評論――」『国語と国文学』第30巻第4号、至文堂、1953年4月、62-70頁、NAID 40001298003。 
  • 「馬琴文学の基本的課題 ――再検討の契機に関する断想――」『国文学研究』第9・10巻、早稲田大学国文学会、1954年3月、521-534頁、NAID 120005480134。 
  • 「近世後期小説の特質」『国文学解釈と鑑賞』第19巻第5号、至文堂、1954年5月、33-39頁、NAID 40001341244。 
  • 「通」『国文学 解釈と鑑賞』第21巻第2号、ぎょうせい、1956年2月、25-28頁、NAID 40001328159。 
  • 「雨月物語研究ノート ――その一『白峯』の巻――」『国文学研究』第14巻、早稲田大学国文学会、1956年10月、61-75頁、NAID 120005480191。 
  • 「西鶴文学における遊里と遊女」『国文学 解釈と教材の研究』第2巻第6号、77-82、1957年4月、学燈社、NAID 40001360723。 
  • 「前期江戸町人文学とその読者層 ――洒落本・黄表紙の文芸性と運命を規定した一要因についての考察――」『文学』第26巻第5号、岩波書店、1958年5月、NAID 40003383374。 
  • 「ある日の塩田さん」『國文學踏査』第6巻、大正大学、1959年9月、89-90頁、NAID 110000440730。 
  • 「近世の勧善懲悪文学」『国文学 解釈と教材の研究』第5巻第11号、学燈社、1960年9月、53-59頁、NAID 40001344330。 
  • 「山東京伝の洒落本 ――その展開と作風に関する一考察――」『国語と国文学』第38巻第4号、ぎょうせい、1961年4月、81-91頁、NAID 40001294349。 
  • 「キャッチフレーズの本質と歴史」『国文学 解釈と教材の研究』第7巻第2号、学燈社、1962年1月、52-57頁、NAID 40001344787。 
  • 「雨月物語研究ノ-ト ――その二「蛇性の婬」の巻――」『国文学研究』第25巻、早稲田大学国文学会、1962年3月、150-154頁、NAID 120005480357。 
  • 「秋成の文学と風土 ――「雨月物語」の風土性と非風土性――」『国文学 解釈と教材の研究』第8巻第4号、学燈社、1963年3月、71-78頁、NAID 40001345213。 
  • 「艶笑小説」『国文学 解釈と教材の研究』第8巻第7号、学燈社、1963年5月、120-138頁、NAID 40001345282。 
  • 「遊里文学としての洒落本」『国文学 解釈と教材の研究』第9巻第2号、学燈社、1964年1月、54-59頁、NAID 40001345472。 
  • 「松田修著「日本近世文学の成立」」『文学』第32巻第3号、岩波書店、1964年3月、NAID 40003384275。 
  • 「民衆文学の展開」『歴史教育』第12巻第12号、日本書院、1964年12月、NAID 40003822552。 
  • 「馬琴研究会と老先生」『早稲田大学図書館紀要』第6巻、早稲田大学図書館、1964年12月、60-61頁、NAID 120006306502。 
  • 「最近における秋成研究の展望」『国文学 解釈と教材の研究』第10巻第5号、学燈社、1965年4月、169-171頁、NAID 40001345920。 
  • 「私説・日本宣伝史 古代篇―1―」『教養諸学研究』第20号、早稲田大学政治経済学部教養諸学研究会、1965年5月、NAID 40000751328。 
  • 「「蛇性の婬」の文学的価値 ――「雨月物語」研究ノート――」『文学』第33巻第5号、岩波書店、1965年5月、447-461頁、NAID 40003387159。 

校訂

  • 暉峻康隆、岡村千曳、洞富雄、鵜月洋「瀧澤家日記 壬辰日記 (五) 自天保三年二月十四日 至同年二月廿七日」『早稲田大学図書館紀要』第1巻、早稲田大学図書館、1959年12月、144-153頁、NAID 120006306540。 
  • 暉峻康隆、岡村千曳、洞富雄、鵜月洋「瀧澤家日記 壬辰日記 (六) 自天保三年二月廿八日 至同年三月廿五日」『早稲田大学図書館紀要』第2巻、早稲田大学図書館、1960年12月、178-195頁、NAID 120006306535。 
  • 暉峻康隆、岡村千曳、洞富雄、鵜月洋「瀧澤家日記 壬辰日記 (七) 自天保三年三月廿六日 至同年四月廿八日」『早稲田大学図書館紀要』第3巻、早稲田大学図書館、1961年12月、1-20頁、NAID 120006306570。 
  • 暉峻康隆、岡村千曳、洞富雄、鵜月洋「瀧澤家日記 壬辰日記 (八) 自天保三年四月廿九日 至同年六月十一日」『早稲田大学図書館紀要』第4巻、早稲田大学図書館、1962年12月、74-104頁、NAID 120006306523。 
  • 暉峻康隆、岡村千曳、洞富雄、鵜月洋「瀧澤家日記 壬辰日記 (九) 自天保三年六月十二日 至同年七月十二日」『早稲田大学図書館紀要』第5巻、早稲田大学図書館、1963年12月、142-164頁、NAID 120006306552。 
  • 暉峻康隆、岡村千曳、洞富雄、鵜月洋、柴田光彦「瀧澤家日記 壬辰日記 (一〇) 自天保三年七月十三日 至同年八月四日」『早稲田大学図書館紀要』第7巻、早稲田大学図書館、1966年3月、159-171頁、NAID 120006306486。 
  • 暉峻康隆、岡村千曳、洞富雄、鵜月洋、柴田光彦「瀧澤家日記 壬辰日記 (一一) 自天保三年八月五日 至同年八月廿九日」『早稲田大学図書館紀要』第8巻、早稲田大学図書館、1967年3月、97-112頁、NAID 120006306477。 
  • 暉峻康隆、岡村千曳、洞富雄、鵜月洋、柴田光彦「瀧澤家日記 壬辰日記 (一二) 自天保三年九月朔日 至同年九月晦日」『早稲田大学図書館紀要』第9巻、早稲田大学図書館、1968年3月、101-118頁、NAID 120006306466。 

脚注

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注釈

  1. ^ この年に優等賞が授与された卒業生は全部で28人であり、文学部で優等賞を受けた者は、鵜月の他に心理学者の本明寛(文学部哲学科心理学専攻)、考古学者の藤沢宗平(史学科国史専攻)がいる[5]。また、暉峻によると銀時計が与えられたという[4]
  2. ^ 1932年10月15日に恩師金を基として、成績卓絶な論文を表彰する「恩賜記念賞」という学術奨励制度が制定され、その先行水準には達しないが、それに次ぐ水準の成績優秀な論文を表彰するために、1935年2月7日に制定されたのが「教職員賞」である[7]
  3. ^ 中野三敏の助筆により死後刊行された[10]
  4. ^ 中村博保の助筆により死後刊行された。中野によれば、当該書籍は鵜月の死後、中村が4年近くを費やして全面改稿に近いほど詳細に加筆したが、中村本人の意思で自身の名前は一切出さずに鵜月の単著という形にするはずだった。しかし中野達の説得により、後書きにおいてその旨を記す形にしたという[10]。中村による当該書籍の「あとがき」には、「結果的には私の解釈を大幅に盛り込むことになった。」とあり、その後に鵜月の原稿を整理・編集した箇所と中村が執筆・加筆した箇所の説明がされている[11]

出典

  1. ^ a b c d e f g h 略年譜 1965, p. 195.
  2. ^ 鵜月洋「平和の終焉より動乱期へ ―ある早生児の慇懃無礼な思い出ばなし―」『国文学研究』第7号、早稲田大学国文学会、1952年10月20日、145-148頁。 
  3. ^ a b 暉峻康隆「はしがき」『雨月物語評釈』角川書店〈日本古典評釈・全注釈叢書〉、1969年3月、1-2頁。 
  4. ^ a b 暉峻康隆「はしがき」『広告文の歴史 キャッチフレーズの100年』日本経済新聞社〈日経新書30〉、1965年12月、3-4頁。 
  5. ^ a b 「校報 卒業生ニシテ優等賞ヲ受ケシ者」『早稲田学報』第563号、早稲田大学校友会、1942年1月15日、38頁。 
  6. ^ 「校報 教職員賞ヲ受クル者」『早稲田学報』第572号、早稲田大学校友会、1942年10月15日、56頁。 
  7. ^ a b 『早稲田大学百年史』 第三巻、早稲田大学出版部、1987年3月、623-628頁。 
  8. ^ 『日本古典評釈・全注釈叢書 月報10 雨月物語評釈』角川書店、1969年3月、7頁。 
  9. ^ 「訃報」『早稲田学報』第753号、早稲田大学校友会、1965年7月15日、47頁。 
  10. ^ a b c 中野三敏『本道楽』講談社、2008年7月、125-126頁。ISBN 9784062117937。 
  11. ^ 中村博保「あとがき」『雨月物語評釈』角川書店〈日本古典評釈・全注釈叢書〉、1969年3月、775-776頁。 

参考文献

  • 「故鵜月洋講師略年譜・業績一覧」『教養諸学研究』第20号、早稲田大学政治経済学部教養諸学研究会、1965年5月20日、195-202頁、NAID 40000751329。 

外部リンク

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