1994年の日本ハムファイターズ
1994年の日本ハムファイターズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ6位 | |
46勝79敗5分 勝率.368[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
球場 | 東京ドーム |
球団組織 | |
オーナー | 大社義規 |
経営母体 | 日本ハム |
監督 | 大沢啓二 |
« 1993 1995 » | |
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1994年の日本ハムファイターズ(1994ねんのにほんハムファイターズ)では、1994年の日本ハムファイターズにおける動向をまとめる。
この年の日本ハムファイターズは、3回目の大沢啓二監督体制の2年目のシーズンである。
概要
監督就任2年目の大沢は、「1994年のシーズンは1993年の勢いのままいこうと思ってた。故障していたエースの西崎幸広も戻ってくるし、準備も万全。はっきり言って、自信もあったよ」と述べていたが、大沢は自信があったシーズンだったが、いくつか誤算があった。柴田保光の心臓疾患、横浜を自由契約となった高木豊を獲得したが、大沢は「あいつはもっとやられると思っていた。けど、やっぱり力が衰えてたんだなあ。打線のブレーキになっちまった。[2]」と述べ、マット・ウインタースやリック・シューは契約で揉めてやる気を無くして大きな誤算になった[2]。開幕直後にロッテに連勝したものの、オリックスに3連敗を喫した。フロントが現場批判を新聞記者にしゃべり、その翌日のスポーツ紙に「日本ハム内紛、フロントが現場批判」という記事が載り、頭に来た大沢が当事者の球団関係者を怒鳴りつけた以降はチームの空気が悪くなり、大沢とフロントが対立、最下位に低迷し8月にオーナーの大社義規に今シーズン限りで退団することを報告した[2]。最後は1984年以来、10年ぶりの最下位に終わった。東京ドームでの最終戦となった9月28日のロッテ戦試合終了後に大沢が「今年、最下位になったのはすべて私の責任です。ファンの皆様には大変申し訳なく思っております。」と話し、グラウンドで土下座してファンに謝罪した[2]。シーズン終了後、戦力外を受けた大島康徳[3]、柴田、高木も同年限りで引退した。
チーム成績
レギュラーシーズン
開幕:4/9 | 5/1 | 6/1 | 7/2 | 8/2 | 9/3 | |||||||
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1 | 二 | 白井一幸 | 遊 | 広瀬哲朗 | 二 | 白井一幸 | 遊 | 広瀬哲朗 | 遊 | 広瀬哲朗 | 遊 | 広瀬哲朗 |
2 | 遊 | 広瀬哲朗 | 二 | 白井一幸 | 三 | 片岡篤史 | 二 | 白井一幸 | 中 | 鈴木慶裕 | 二 | 白井一幸 |
3 | 左 | 高木豊 | 右 | 田中幸雄 | 右 | 田中幸雄 | 右 | 田中幸雄 | 右 | 田中幸雄 | 右 | 田中幸雄 |
4 | 指 | ウインタース | 指 | ウインタース | 指 | ウインタース | 指 | ウインタース | 指 | ウインタース | 指 | ウインタース |
5 | 一 | シュー | 左 | 高木豊 | 一 | シュー | 左 | 五十嵐信一 | 左 | 中島輝士 | 三 | 片岡篤史 |
6 | 右 | 田中幸雄 | 一 | シュー | 左 | 小川皓市 | 中 | 鈴木慶裕 | 三 | 片岡篤史 | 一 | シュー |
7 | 三 | 片岡篤史 | 三 | 森範行 | 捕 | 田村藤夫 | 一 | シュー | 一 | 五十嵐信一 | 左 | 小川皓市 |
8 | 捕 | 田村藤夫 | 捕 | 田村藤夫 | 中 | 大貝恭史 | 捕 | 田村藤夫 | 捕 | 田村藤夫 | 捕 | 田村藤夫 |
9 | 中 | 大貝恭史 | 中 | 大貝恭史 | 遊 | 広瀬哲朗 | 三 | 片岡篤史 | 二 | 白井一幸 | 中 | 鈴木慶裕 |
投 | 西崎幸広 | 投 | 関根裕之 | 投 | 河野博文 | 投 | 河野博文 | 投 | 西崎幸広 | 投 | 白井康勝 |
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 西武 | -- | 西武 | -- | 西武 | -- | 西武 | -- | 西武 | -- | 西武 | -- |
2位 | ダイエー | ダイエー | 0.5 | ダイエー | 5.0 | ダイエー | 1.0 | オリックス | 1.0 | オリックス | 7.5 | |
3位 | オリックス | 2.5 | オリックス | 6.5 | オリックス | 6.0 | オリックス | 近鉄 | 1.0 | 近鉄 | ||
4位 | ロッテ | 3.5 | ロッテ | 8.0 | ロッテ | 11.0 | 近鉄 | 5.5 | ダイエー | 4.0 | ダイエー | 7.5 |
5位 | 日本ハム | 4.5 | 近鉄 | 10.0 | 近鉄 | 13.0 | ロッテ | 15.5 | ロッテ | 16.0 | ロッテ | 21.0 |
6位 | 近鉄 | 4.5 | 日本ハム | 11.0 | 日本ハム | 16.0 | 日本ハム | 19.0 | 日本ハム | 20.0 | 日本ハム | 28.5 |
期間 成績 | 7勝11敗1分 勝率.389 | 10勝16敗 勝率.385 | 8勝13敗 勝率.381 | 5勝14敗2分 勝率.263 | 10勝12敗1分 勝率.455 | 7勝12敗1分 勝率.368 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 西武ライオンズ | 76 | 52 | 2 | .594 | 優勝 |
2位 | オリックス・ブルーウェーブ | 68 | 59 | 3 | .5354 | 7.5 |
2位 | 近鉄バファローズ | 68 | 59 | 3 | .5354 | 7.5 |
4位 | 福岡ダイエーホークス | 69 | 60 | 1 | .5349 | 7.5 |
5位 | 千葉ロッテマリーンズ | 55 | 73 | 2 | .430 | 21.0 |
6位 | 日本ハムファイターズ | 46 | 79 | 5 | .368 | 28.5 |
オールスターゲーム1994
- 選出選手及びスタッフ
ポジション | 名前 | 選出回数 |
---|---|---|
コーチ | 大沢啓二 | |
投手 | 西崎幸広 | 6 |
捕手 | 田村藤夫 | 9 |
遊撃手 | 広瀬哲朗 | 2 |
外野手 | 田中幸雄 | 5 |
- 太字はファン投票による選出。
できごと
選手・スタッフ
日本ハムファイターズ 1994 | |
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監督 | 86 大沢啓二 |
一軍コーチ | |
二軍監督・コーチ | |
投手 | |
捕手 | |
内野手 | |
外野手 |
表彰選手
リーグ・リーダー |
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受賞者なし |
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
広瀬哲朗 | 遊撃手 | 2年連続2度目 |
ゴールデングラブ賞 | ||
選手名 | ポジション | 回数 |
広瀬哲朗 | 遊撃手 | 2年連続2度目 |
ドラフト
- 網掛けの選手は逆指名による入団
順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
---|---|---|---|---|
1位 | 金村秀雄 | 投手 | 仙台育英学園高 | 入団 |
2位 | 厚沢和幸 | 投手 | 国士舘大学 | 入団 |
3位 | 桜井幸博 | 投手 | 仙台工業高 | 入団 |
4位 | 島田一輝 | 内野手 | NTT関東 | 入団 |
5位 | 城石憲之 | 内野手 | 青山学院大学中退 | 入団 |
脚注
注釈
- ^ 5月に小川浩一から改名。
出典
« 19931994年の日本プロ野球1995 » | |||||||
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セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | ||||||
優勝 | 読売ジャイアンツ | 2位 | 中日ドラゴンズ | 優勝 | 西武ライオンズ | 2位 | オリックス・ブルーウェーブ |
3位 | 広島東洋カープ | 4位 | ヤクルトスワローズ | 2位 | 近鉄バファローズ | 4位 | 福岡ダイエーホークス |
4位 | 阪神タイガース | 6位 | 横浜ベイスターズ | 5位 | 千葉ロッテマリーンズ | 6位 | 日本ハムファイターズ |
:日本一 :日本シリーズ出場 | |||||||
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各年の北海道日本ハムファイターズ | |
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1940年代 | |
1950年代 | |
1960年代 | |
1970年代 | |
1980年代 | |
1990年代 | |
2000年代 | |
2010年代 | |
2020年代 | |
1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。 |
この項目は、野球に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球/P野球)。 |
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